2017年12月9日土曜日

「死に至る病」と沈黙

「死に至る病」といっても、ガンのことではない。
キェルケゴールの本の名前だ。



人生で、何度か死に接すると思うが、強烈に心に残るものがある。

幼い頃、母に連れられ葬式に行った。
母は言った。井戸に母子で飛び込んだといった。
多分、聞き違いだろう。川か海だったのだろうが、井戸を見ると今でも何故か恐怖心が湧く。
この家は、夫が交通事故で死んで、その妻と子どもが途方に暮れて一家心中したのだ。
母にずっと後で聞くと、自殺したことさえ覚えていないという。

飯塚では父が勤める炭鉱社宅の共同風呂の帰りに、列車事故があった。
轢かれた人はバラバラになった。
切れた片足を何人もの人がそのまま運んでいた。
ももの切り口部分が私にはとてつもなく大きく見えて車輪のように見えた。

この頃、祖母が乳がんで亡くなった。葬式で座っている写真が残っているが記憶は全然ない。

小学校入学と同時に北九州に引っ越した私には友達がいなかった。
唯一、三村君という友達ができて、いつも遊びに行っていた。
ある日のこと、もう、来ないでと言われた。ショックだった。
別に、他のクラスで気の合う友達ができたのだ。
大好きな三村君よりその友達を恨んだ。子供心に「死ねばいい」と。
それからしばらくして、現実になった。
「悲しいことですが、昨日、○○君がダンプに曳かれて亡くなりました」と校長先生が朝の朝礼で告げた。脳が出るほど悲惨だったらしい。
その時、絶対に死ねばいいなどと思ってはならないと心に誓った。

小学校4年の時、近くの土手でみんなと遊んでいたら、川に長い黒髪の大きな人形が流れてきた。
なんだろうと物干し竿が捨ててあったので、それでつついて遊んでいた。
しばらくすると、警察がたくさんきて、人形を引き上げた。
それは本物の人間だった。酒に酔って水死したという。
顔はパンパンに膨らんで、落ちたときにできた傷はパックリと開き、警察がビニール手袋で、皮膚にさわるとアッという間にピリピリと裂けた。
小学生だったからか事情聴取はなかった。後で痩せた若い工員だったと聞いた。

中学1年の夏休みが開けるとすぐ、先生から「悲しいお報せがあります。後藤さんが腎盂炎で亡くなりました」とホームルームで報告した。「わしゃあ、もうダメじゃ」が最後の言葉だった。
ショックだった。ショートカットの元気な女の子で、夏休み最後の大掃除の時、一緒にホウキをもってふざけて遊んでいたからだ。
葬儀にはクラス全員で参加した。遺影を見て、人は簡単に死ぬでしまうのだと思った。
これまでも尋常ではない経験をしたのに、身近な同級生の死が一番「死」ということを考えさせた。
とはいえ、そこは子ども。また、普通の生活に戻った。

再び扉を開いたのは、高校の図書館でたまたま「死に至る病」という本を見つけた時だ。
「死」というキーワードに目がひかれた。

自分が考えていた内容とはまったく違ったものだった。
「死に至る病」とは絶望のことである、と書いてあった。

倫理の授業でロックやモンテスキューなどを学んでいたが、啓蒙って難しい字で、何の意味だろうほどの認識しかなかったが、このキェルケゴールが出てきてから、がぜん興味が加速し、図書館で手当たり次第にその手の本を読みまくった。
カント、ヘーゲル、ラッセル、難解の極みヴィトゲンシュタインまで読んだ。さすがに理解できていなかっただろうが。ハイデッカーは読んだ記憶はない。図書館になかったのかな。
当時は、今みたいなイラスト付きのよくわかる哲学なんてなかった。

黒板に黙々と字を書くか、弱々しい声で副読本の説明しかしなかった倫理のおじいちゃん先生はだれからも相手にされなかった。
私だけが哲学書を読んでわからないことを授業が終わるたびに聞いた。本当にうれしそうだった。授業の声も大きくなった。
普段、バカな私がこんな質問を繰り返したからだろう。
みんな、私より理解しているのだろうと勝手に解釈したおじいちゃん先生は、期末テストでとんでもないことをした。
平均点が20点以下という前代未聞の問題だった。
欠点の40点を超えたのは2人。40点ぎりぎりの秀才と90点の私だけだった。
100点が取れなかったのは漢字が書けなかったのだろう。
学校始まって以来の出来事に大騒ぎになった。
職員室に呼び出されたが、まわりが全員ひどい点数だったのでカンニングの疑いは晴れた。
みんなはこの出来事には、何故か口を閉ざした。
ゲマインシャフトの存在を感じた。
いけないことをしたのだと、それ以来、先生のところに行くのをやめた。
おじいちゃん先生の声はますます小さくなった。
それ以来、まわりに哲学を語ることはなかった。
「語りえぬものには、沈黙しなければならない」『論理哲学論考』(ヴィトゲンシュタイン)



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