2017年12月8日金曜日

作品番号1番 ねこが死んじゃった

小学校5年の時、広島の福山に転校した。
父が探してきた2軒続きの平屋建ての田中アパートは新築だったが、なぜか、風呂は五右衛門風呂だった。
玄関横の狭い2畳ほどの納戸に、福岡から持ってきた電子オルガンが置いてあった。

このオルガン、小学校に上がる前、どうしてもオルガンを習いたくて、ねだってねだって、買ってもらった。んだろうと思う。半世紀以上も前のことだ。記憶がない。
飯塚の「はたや楽器」にヤマハの音楽教室があり、通っていたのだ。
多分、母とバスで行っていたのだろうが、タクシーに乗っていった思い出しかない。

小学校に入る時、北九州の折尾に転居した。
ヤマハの音楽教室は、妹の通う女子大の付属幼稚園の教室で行われた。
その頃は、オルガンより、マグネットの音符がついた五線紙盤で陣取り遊びや、父からもらった大きなU字磁石でその黒い音符を反極で飛ばしたりして遊ぶことだけに夢中だった。
オルガンに触れるのは、教室に行った時だけ。
辞めたかったが、自分から懇願したのだから、辞めるわけもいかず、一番ヘタクソだった。
和音の聞き取りも、たまについてきた妹が後ろで真っ先に手を挙げる。「ハイ、2の和音、5の和音」と。
兄の私はボーっとしてひとりだけ窓の外を見ていると、帰りに母から叱られた。

1年生のクリスマス近くに、レッスンの第一期が終わり、卒業演奏があった。幼稚園とは別のところだったと思う。
アンサンブル演奏で、みんなオルガンだったが、私だけ、先生から「大太鼓」と言われた。
他のみんなは次の教程にいったが、これでおしまいと思った私は、2年間のレッスンで一番真剣にリズムを叩いた。

それ以来、ずっとオルガンは触らなかった。
が、突然、この納戸のオルガンで作曲を始めたのだ。

きっかけは、拾ってきた猫だった。
道端で小さな黒猫がか弱い声で鳴いていた。雨に濡れて、かわいそうだからと家に持って帰った。
母からアパートでは動物を飼ってはいけないから捨ててきなさいと言われたが、衰弱していたので、元気になるまで隠れて飼ってもいいと許可もらった。
名前をつけた。「クロ」。
クロはかわいかった。いつまでも飼っておきたかったから、元気になりませんようにと祈ったが、思いに反して、すごいいたずらっ子になって、部屋の障子紙を爪で引っ掻いた。
母から、「もう、こんなに元気になったのだから約束通り捨ててきなさい」と言われ、泣く泣く妹と遠くまで歩いてクロを捨てた。
その晩は悲しかった。でも、次の日、クロは家に帰ってきた。嬉しくてたまらなかったが、やはり、許してはくれなかった。
父が車でクロを捨てに行った。さかずにクロは戻ってこなかった。
その悲しみが、ずっと眠っていた私の音楽魂に火をつけたのだろう。
あっという間に、作詞、作曲、同時進行で、
記念すべき作品番号第1番「ねこが死んじゃった」が完成した。
ついでに、第2番「フグフグなあ~に」という曲もできた。



「紳士です」の部分だけ、音が跳ねてない。よくできている。
高校時代に作った、ピアノソナタやコンチェルト、プロコフィエフもどきの現代曲。吉田兼好に感化された「徒然草による組曲」よりもはるかにいい、と思っている。


「ねこが死んじゃった」の和音はずっとトニックだが、最後はドミナントで終わる。



それも、レの音で余韻を残しながら終わる。
こんな終わり方は、多分、ヤマハ教室の曲に「スペインの踊り」というのがあって、ドレーミ、ファソーオミーとはじまってから、最後の音がサブドミナントのファで終わる曲が好きだったからか。
この曲と「小鳥がねぇ~」から始まる「ヤマハおんがくきょうしつの歌」しかヤマハでの記憶はない。

「兄ちゃん。すごくいい」と妹が手を叩いてくれた。
最後のレの音は私の悲しみを表していた。弾くたびに伸びていった。
オルガンだから鍵盤を押す限り音は鳴り続ける。
そのうち、妹は最後のレの音に拒否反応を示し、逃げ出した。
唯一の理解者を失った私の音楽は再び長い眠りについた。

0 件のコメント:

コメントを投稿