2018年5月20日日曜日

最上秀樹?

西城秀樹が亡くなった。

私と同級生だ。といっても同じクラスにいたわけではない。
ヒデキがデビューした時には、もう、「博多みれん」で全然ダメだったが次の「青いリンゴ」で野口五郎が売れっ子になっていた。

この年(1972年)の暮、高校生の私は、心斎橋のそごう百貨店のお歳暮の包装のアルバイトをしていた。そこには、なぜかレスリングで世界選手権で優勝した大学生のお兄ちゃんも一緒にいたが、包む技術は私の方がはるかにうまく、どうやってやるのか教えてくれといわれて、変な感じだった。
その時、別世界のような支店長室付みたいな箇所があり、すごい可愛い女の子が何人もいて、彼女たちが、「ねぇ、ねぇ、ゴローってかっこいい。バレンタインにはどのチョコを送ろうかしら」と社員食堂で話しているのを私たち包装労働者は憧れの目で遠くから見つめていた。
その時は野口五郎が人気を独占していたが、翌年に西城秀樹が現れた。

当時、テレビで深夜になると、今でいうプロモーションビデオみたいな芸能ニュースがあり、「恋する季節」でデビューしたヒデキが公園で歌っていた。
たまたま見たのだったが、なにか今までの歌手とは違った雰囲気を持った新人がデビューしてきたなという印象だった。

野口五郎のデビュー曲は全く売れなかったが、西城秀樹のこの「恋する季節」はちょっとは売れた。次の「恋の約束」も売れたが、どんな曲だったかも思い出せない。
3曲目の「チャンスは一度」はみんな知っていてずいぶん売れたと思っていたが、2曲目の方が売れていた。

西城秀樹のイメージを決定づけたのは「情熱の嵐」からだ。
この頃(1973年)には野口五郎が甘い歌声、西城秀樹がワイルドでハスキーな歌声、そして中性的な声でかわいい歌声の郷ひろみと新御三家がそろっていた。

「傷だらけのローラ」が売れていた時、NTV紅白歌のベストテンで催眠術にかかって苦痛の表情でもがき苦しむヒデキに中継会場の渋谷公会堂のファンが「もう止めて、止めて」と泣き叫ぶ場面で、こっちまでが息苦しくなってきて、テレビを見ている人が催眠術にかかって解けなかったら社会的問題になるなといらぬ詮索をしたが、それはなかった。

友達のUは後ろ姿が西城秀樹そっくりだった。雰囲気があって女の子にもモテていた。
ある時、駅の階段を一緒に登っていると、中学生の集団の声が下から聞こえてきた。
「あっ、ヒデキとちゃうか」というと、あっという間に私たちを追い越して駆け上り、振り返って言った。
「ちゃう、ぜんぜんちゃうちゃう。けったいやな。ぶっさいくやなあ」
あたりまえだ。西城秀樹と比べるな!!
こんな田舎の駅に西城秀樹が赤と白の千鳥模様のコートを羽織って歩いているわけがない。

学生の時、劇をした。
できのいい「最上秀樹」にたいして、隣に住んでいる「最低フデキ」の母親役が私だった。

「YOUNG MAN(Y.M.C.A」が1979年に売れてから、80年代になってオフコースの「眠れぬ夜」をカバーしたりして、あまり印象にのこったものはなかった。
が、83年にもんたよしのりが作った「ギャランドゥ」が出ると、何とカッコイイ曲だ!
それまで西城秀樹の全盛期の曲はピアノだけで弾くにはなじまないものが多かったが、この「ギャランドゥ」はピアノでジャズにしてもいかしていた。



ギャランドゥの意味は気にもしていなかったが、ヒデキが亡くなって
「ギャランドゥ」=へそ下の毛 ユーミンが命名 深夜ラジオから浸透
という記事がネットにあった。
「へぇ、そう」と初めて知った。

翌年にWham! Careless Whisperのカバー曲を「抱きしめてジルバ」として出したが、この方が「ギャランドゥ」より売れた。
売れたので郷ひろみも同じ曲を「ケアレス・ウィスパー」とまんまの曲名でカバーしたのかな…???。

西城秀樹 CDシングル売上枚数

とにかくかっこよかった「最上ヒデキ」だった。

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