2018年5月20日日曜日

若大将の彼女と年上の女(ひと)。

西城秀樹が亡くなって、たてつづけに星由里子と朝丘雪路もいなくなった。

星由里子といえば、若大将の恋人。
今見ると、ちょっとしたことで腹を立てて、若大将を困らせる。
そのたびに青大将が当てつけ役にさせられていた。
「大学の若大将」の最後で白バイにスピード違反のキップをきられたりしていてかわいそうだ。
こんな勝手な女性はイヤだなと思ってしまう。



当時は、若大将がかっこよすぎて、「すみ(澄子)ちゃん」には全く興味がなかった。
それより、長谷川一夫主演の『雪之丞変化』の中の若尾文子に、世の中にこんなにきれいな人がいるのかと胸がときめいた、小学3年生にしてませたガキだった。

今、若大将シリーズを見ると一番いいのは飯田蝶子。あんなばあちゃんがいたら幸せだったろうと思う。
そのせいか、ばあちゃん子になった私は、毎年、夏休みはほとんど父の実家の田舎で過ごしていた。



おっとりしていた朝丘雪路は11PMに出ていた時に、大橋巨泉に「ボイン」と呼ばれていた。胸が大きかったからだ。

その朝丘雪路に一時はまった。胸が大きかったからではない。ボインにはあまり興味がない。
「雨がやんだら」という曲にはまったのだ。
毎月、月刊「明星」か「平凡」を買って、その付録に楽譜集がついていた。その「雨がやんだら」の朝丘雪路の顔が付いた譜面だけはなぜか覚えている。

♪濡れたコートで 濡れた身体で
あなたは あなたは
誰に 誰に 逢いに行くのかしら

レコードは見たことはなかったが、ネットで見ると、すさまじいジャケットだ。



中学生だったのになんでこんなませた曲にはまったのか。
やっぱ、年増好みだったのだろう。

ちょうどこの頃、森進一の「年上の女(ひと)」がはやっていた。



小学校6年生の時は、学校の事務のお姉さんに食事をおごってもらい、
中学に入ると生徒会の美人の2年生の副会長に気に入られ、運動会で黄色い声をあげてもらい、
高校に入ってからは上級生の飛び切り美人のお姉さんに私の持っていたゲバゲバのビニール人形をねだられたりした。


好きな芸能人も司葉子とか年増好みで、このままでいくと、本当に飯田蝶子まで行きそうだったが、高校になってまともになり? 南沙織にはまり、年相応の好みになり、岡田奈々、松田聖子と好みの年齢もだんだん下がってきて、私の妻は7つ年下だ。

最上秀樹?

西城秀樹が亡くなった。

私と同級生だ。といっても同じクラスにいたわけではない。
ヒデキがデビューした時には、もう、「博多みれん」で全然ダメだったが次の「青いリンゴ」で野口五郎が売れっ子になっていた。

この年(1972年)の暮、高校生の私は、心斎橋のそごう百貨店のお歳暮の包装のアルバイトをしていた。そこには、なぜかレスリングで世界選手権で優勝した大学生のお兄ちゃんも一緒にいたが、包む技術は私の方がはるかにうまく、どうやってやるのか教えてくれといわれて、変な感じだった。
その時、別世界のような支店長室付みたいな箇所があり、すごい可愛い女の子が何人もいて、彼女たちが、「ねぇ、ねぇ、ゴローってかっこいい。バレンタインにはどのチョコを送ろうかしら」と社員食堂で話しているのを私たち包装労働者は憧れの目で遠くから見つめていた。
その時は野口五郎が人気を独占していたが、翌年に西城秀樹が現れた。

当時、テレビで深夜になると、今でいうプロモーションビデオみたいな芸能ニュースがあり、「恋する季節」でデビューしたヒデキが公園で歌っていた。
たまたま見たのだったが、なにか今までの歌手とは違った雰囲気を持った新人がデビューしてきたなという印象だった。

野口五郎のデビュー曲は全く売れなかったが、西城秀樹のこの「恋する季節」はちょっとは売れた。次の「恋の約束」も売れたが、どんな曲だったかも思い出せない。
3曲目の「チャンスは一度」はみんな知っていてずいぶん売れたと思っていたが、2曲目の方が売れていた。

西城秀樹のイメージを決定づけたのは「情熱の嵐」からだ。
この頃(1973年)には野口五郎が甘い歌声、西城秀樹がワイルドでハスキーな歌声、そして中性的な声でかわいい歌声の郷ひろみと新御三家がそろっていた。

「傷だらけのローラ」が売れていた時、NTV紅白歌のベストテンで催眠術にかかって苦痛の表情でもがき苦しむヒデキに中継会場の渋谷公会堂のファンが「もう止めて、止めて」と泣き叫ぶ場面で、こっちまでが息苦しくなってきて、テレビを見ている人が催眠術にかかって解けなかったら社会的問題になるなといらぬ詮索をしたが、それはなかった。

友達のUは後ろ姿が西城秀樹そっくりだった。雰囲気があって女の子にもモテていた。
ある時、駅の階段を一緒に登っていると、中学生の集団の声が下から聞こえてきた。
「あっ、ヒデキとちゃうか」というと、あっという間に私たちを追い越して駆け上り、振り返って言った。
「ちゃう、ぜんぜんちゃうちゃう。けったいやな。ぶっさいくやなあ」
あたりまえだ。西城秀樹と比べるな!!
こんな田舎の駅に西城秀樹が赤と白の千鳥模様のコートを羽織って歩いているわけがない。

学生の時、劇をした。
できのいい「最上秀樹」にたいして、隣に住んでいる「最低フデキ」の母親役が私だった。

「YOUNG MAN(Y.M.C.A」が1979年に売れてから、80年代になってオフコースの「眠れぬ夜」をカバーしたりして、あまり印象にのこったものはなかった。
が、83年にもんたよしのりが作った「ギャランドゥ」が出ると、何とカッコイイ曲だ!
それまで西城秀樹の全盛期の曲はピアノだけで弾くにはなじまないものが多かったが、この「ギャランドゥ」はピアノでジャズにしてもいかしていた。



ギャランドゥの意味は気にもしていなかったが、ヒデキが亡くなって
「ギャランドゥ」=へそ下の毛 ユーミンが命名 深夜ラジオから浸透
という記事がネットにあった。
「へぇ、そう」と初めて知った。

翌年にWham! Careless Whisperのカバー曲を「抱きしめてジルバ」として出したが、この方が「ギャランドゥ」より売れた。
売れたので郷ひろみも同じ曲を「ケアレス・ウィスパー」とまんまの曲名でカバーしたのかな…???。

西城秀樹 CDシングル売上枚数

とにかくかっこよかった「最上ヒデキ」だった。

2018年5月17日木曜日

ブルースを聴く

「クール・ストラッティン」を聴いたら、無性にブルースを聞きたくなった。
ブルースと言っても、泥臭いブルースではなくて、ジャズのブルースだ。

ブルースの曲ばかり入ったアルバムはあまりない。
私が持っている、ジャッキー・マクリーンの「Bluesnik(ブルースニック)」と和田直の「COCO'S BLUES(ココズ・ブルース)」の2枚だけだが、まだ、あるのかもしれないが…。



オリバー・ネルソンの有名なアルバムに「The Blues and the Abstract Truth(ブルースの真実)」というのがあるが、楽曲はとてもカッコイイが、いわゆるブルース形式ではない。




この2枚。聞きまくった。

私にJAZZを教えたIが「ココズ・ブルース」を聞かせてくれた。
当時はスティープルチェイスから販売されていて、どうしてもほしくなり、近くのレコード店にはないので、心斎橋までいって手に入れた。
ジャケットもかっこいい。全曲、しびれた。
ミディアム・ブルースの「One's Blue」は和田さんのギターから始まり、そのままソロ。そして、粘りまくった本田さんのピアノ。古野光昭のベースもよかった。
「Billie's Bounce」では森剣治のアルト・サックスが馬のいななきみたいなフレーズから始まる。こんな曲調は聞いたことがなかったので、最初、デタラメ吹いていると笑っていたが、聞きこむうちに、病みつきになってしまった。
森さん。今、どうしているのだろう。
続く、アップテンポの「Guitar's Time」で和田さんは弾きまくる。それにつられて本田さんの熱いソロ。
「Sick Thomas」は本田さんのソロからだ。なんてカッコイイんだろう。すっかりジャズにはまってしまった。
コピーしたが、どうやってもあんな黒い音は出なかった。今でも出ない。
最後は古野さんのベースから始まるタイトルチューンの「Coco's Blues」。
CDになってからも何回聞いただろうか。何度聞きなおしても飽きない盤だ。サイコー。



「Bluesnik」は輸入盤しかなかった。ビニールを剥ぐと、輸入盤特有の匂いがした。この盤の曲をCDやパソコンで聞いても、この匂いがしてくる。
ジャッキー・マクリーンもすごくうまいソロもいいが、一曲目の「Bluesnik」でフレディ・ハバードがロリンズの「セント・トーマス」のフレーズを入れたりして、なかなか面白いアルバムだった。



2018年5月15日火曜日

パンストとチョコレート。そして、粋なブルース。

今日5月15日はストッキングの日だそうだ。
ストッキングといえば、ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」のジャケットを思い出す。
久しぶりに見てみると、なんと、どう見ても素足のような気がする。

いや、ナイロンの薄いストッキングを穿いているのかもしれないが、よく、わからない。

Cool Struttin' とは、CoolにStrutする。つまり、粋(Cool)に気取って歩くということだ。
この時代のキャリアウーマンが、戦後の象徴であるナイロンのストッキングを穿いて、タイトスカートでかっこよく歩く、その足元とSonny Clarkのいかした演奏が、みんなの心をとらえた。

1940年代にはナイロンストッキングが大流行したが、第二次世界大戦のためナイロンは貴重品になり、液体ストッキングとペンシルのラインで代用。1950年代にはアメリカでパンティストッキングが発明され、シームレスが新たなトレンドとなったそうだ。(Vogue「ストッキング100年の歴史」)

「クール・ストラッティン」が販売されたのが1958年。
とすれば、やはり、このジャケットのおみ足の持ち主は素足ではなく、最先端のパンストを穿き、ハイヒールで颯爽とニューヨークの街並みをオフィスに駆け抜けていったのだろう。

このアルバムはタイトルロールより、ブルー・マイナー(Blue Minor)の方がはるかに有名だが、やはりこのジャケットにはFのブルースCool Struttin' がピッタリだ。




今年、2018年はアツギによってパンティストッキングが日本で初めて製造・発売され50周年だそうだ。

 ATSUGIのパンストは50周年!!

足が枝のようなツイッギーが前の年の1967年に来日。
おばさんまでもがミニスカート。町中が埋め尽くされていた。

当時のストッキングはガータベルトを使っているタイプだったため、ミニスカートをはいたときに、太ももや下着が見えててしまう心配がありました。 そこでアツギではその女性の悩みを解決するために現在の形のパンティストッキングの生産をはじめ、1968年に販売を開始しました。
と書いてある。

ツイッギーのおかげでパンストが誕生したようだが、もう1つできたものがある。
小枝チョコレートはツイッギーをみて考えたそうだ。
でも、ツイッギーの出ていたCMは、小枝チョコじゃなくて、チョコフレークだった。


68才になったツイッギー。
50年前のおばさんのミニのような太い足にはならず、あいかわらずの細い足のようだ。
チョコをあまり食べなかったからだろうか…?