2018年9月30日日曜日

ツイッギーで始まった「チョコフレーク」が終わる?

昨年の「カール(明治製菓)」の東日本での生産中止に引き続き、さらに古く50年以上の歴史をもつ森永製菓の「チョコフレーク」の今年12月での生産終了が発表された。

森永製菓、「チョコフレーク」の生産終了

食べるときに手がべたつくこともあり、携帯が汚れるなどの理由もあり、若年層に敬遠されていたという。



販売当時は画期的だった。
1967年に登場した時、ミニスカートのツイッギーが大きく乗ったポスターには「『トゥイギータッチのかるいチョコレート』 軽快・タッチ・センス ズバリ アッピールした新しいチョコと」と書かれていた。


50年たってそのタッチが敬遠される理由になるとは……。

「チョコフレーク」がすべてなくなるわけではないようだ。
日清シスコも生産している。



森永の「チョコフレーク」は終わるが、日清といえばラーメン。
とても面白かったNHKの「半分、青い」に引続き、10月から始まる「まんぷく」はその創業者のインスタントラーメンを発明した日清食品の創業者、安藤百福の妻の話だ。

日清シスコの「チョコフレーク」は森永に比べてその割合はかなり少なかったらしいが、「まんぷく」の放送開始とともに「チョコフレーク」がなくならないようふんばってほしい。

「さすらいのギター」とショパン

先日、懐かしい曲のエレキバンド演奏があった。
初めは「夜霧のしのび逢い」。原題は「赤いランタン」。
ギリシャ映画の主題歌で、映画は見たことはないが、主題歌はクロード・チアリの演奏で有名。


日本で公開されるとき、差し替えられたそうだ。元の曲はLos Mayasの「浜辺(La Playa)」。
こちらの演奏の方がしっとりとしている。


2曲目は「さすらいのギター」。
小山ルミでヒットした。

ベンチャーズも演奏していた。

元はザ・サウンズ(The Sounds)の「満州のビート(Manchurian Beat)」だそうだ。


似たような雰囲気の曲にザ・スプートニクスの「霧のカレリア」という曲もあるが、これは満州ではなく元歌はロシアの曲。

「さすらいのギター」を聞くと、ショパンのピアノ協奏曲1番を思い出す。
オーケストレーションが稚拙とかいわれるけど、ショパンは20才で作った。天才は違う。
ピアノが出てくるまで、かなり速いアルゲリッチの演奏でもやたらと時間がかかるが、甘いメロディーに心を奪われる。


この第一主題の初めが「さすらいのギター」の出だしにとても似ているので、思い出してしまうのだ。
このピアノ協奏曲のテーマをつかってポップスにしたのが「フィドル・プレイ・フィドル(Play Fiddle Play)」。
あまり、演奏されないが、1972年のオマさんこと鈴木勲カルテットの「BLUE CITY」に収められている。
ここでオマさんはベースをアルコで引きながら、メロディーを一緒にハミングしている。
なんとかっこいいんだと思った。

他に「フィドル・プレイ・フィドル」の演奏はないかとAWAで検索したら、1945年のスラム・スチュアートのものが見つかった。

スラム・スチュアートといえばアルコ演奏。この曲をオマさんと同じように弓で弾きながらハミングしているではないか。
しかも、ピアノはエロール・ガーナー。鈴木勲カルテットのピアノは日本のエロール・ガーナーと言われた菅野邦彦だ。
ということは、オマさんがスラム・スチュアートのアイデアをとって「フィドル・プレイ・フィドル」の演奏をしたのだと思う。

「BLUE CITY」はレコードもCDも買ったが見つからない。ライナーノートにはそう書かれていたのかもしれない。

2018年6月9日土曜日

突然、ジョン・コルトレーンが蘇った。

7日に音楽サービスのAWAの"Create a New Playlist"に、ジョン・コルトレーンのアルバムで「アンタイトルド・オリジナル11383」という曲があり、なんじゃいなと聞いてみると、コルトレーンの「じゃあオリジナル曲だ」の声から始まる、聞いたことのないBbペンタトニックのブルース。
コルトレーンのしびれるようなソロが終わり、マッコイのピアノも実にいい。インパルス特有の録音のもここちよい。
これが終わると、ジミー・ギャリソンのアルコソロ、まさにコルトレーン・クァルテットの定番もの。
エルビンのドラムもバリバリ。
なんだ、この曲は?
ど、思っていたら、翌日の6月8日の新聞には、"コルトレーンのスタジオ音源、55年越しのリリース"と各社が取り上げた。NHKまでがニュースで伝えていた。

ジョン・コルトレーン「ザ・ロスト・アルバム」





この曲が録音されたのは1963年3月6日。
なんで、こんなにいい演奏がオクラになったのかというと、世界的に著名なコルトレーン研究家の藤岡靖洋さん曰く、録音日は名盤「ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン」の収録前日の63年3月6日。藤岡さんは「当時のコルトレーンの演奏は前衛的と思われ、理解に苦しむ人が多かった。より世の中に受け入れられやすい歌手ハートマンとの共演盤を先に発表したのではないか」(日経)と。

確かに大衆うけするのは、甘いベルベット・ヴォイスのハートマンにからみつく、コルトレーンのサックスの音色と演奏の方だろう。


1963年3月ごろのビルボードのヒット曲はポール&ポーラの「ヘイ・ポーラ」やカスケーズの「悲しき雨音」などだ。


ちなみに3月9日の1位はフォー・シーズンズの「Walk Like A Man」(なんと、邦題は恋のハリキリ・ボーイ)。


ポピュラーでは、こんな曲が流行っていたのに、コルトレーンはインパルスに録音するようになって「ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」「インプレッションズ」とますます過激になってくる。


そんな中「バラード」は、アルトのキーのひとつが折れてはずれてしい、ありあわせのスプーンを折って、チューインガムとテープで補修し、その夜のラストまで、平然と立派なソロ演奏したパーカーに比べて、超神経質なコルトレーンがどうしても思った音が出なくて、バラードのアルバムを出したと言ったというが、どうも怪しい。
推測するに、エリントンとかハートマンの競演ものやバラードの方が売れると判断されたのではないか?
そして、売れたら、次はまた、本当にやりたいことをさせてあげるよと言われたのかもしれない。

これらがどれだけ売れたかわからないけど、次の年には「至上の愛」がつくられ、コルトレーンは、マッコイもエルビンもふるい落とされるほど、凡人では理解できない神の領域へと昇天(Ascension)してしまう


2018年5月20日日曜日

若大将の彼女と年上の女(ひと)。

西城秀樹が亡くなって、たてつづけに星由里子と朝丘雪路もいなくなった。

星由里子といえば、若大将の恋人。
今見ると、ちょっとしたことで腹を立てて、若大将を困らせる。
そのたびに青大将が当てつけ役にさせられていた。
「大学の若大将」の最後で白バイにスピード違反のキップをきられたりしていてかわいそうだ。
こんな勝手な女性はイヤだなと思ってしまう。



当時は、若大将がかっこよすぎて、「すみ(澄子)ちゃん」には全く興味がなかった。
それより、長谷川一夫主演の『雪之丞変化』の中の若尾文子に、世の中にこんなにきれいな人がいるのかと胸がときめいた、小学3年生にしてませたガキだった。

今、若大将シリーズを見ると一番いいのは飯田蝶子。あんなばあちゃんがいたら幸せだったろうと思う。
そのせいか、ばあちゃん子になった私は、毎年、夏休みはほとんど父の実家の田舎で過ごしていた。



おっとりしていた朝丘雪路は11PMに出ていた時に、大橋巨泉に「ボイン」と呼ばれていた。胸が大きかったからだ。

その朝丘雪路に一時はまった。胸が大きかったからではない。ボインにはあまり興味がない。
「雨がやんだら」という曲にはまったのだ。
毎月、月刊「明星」か「平凡」を買って、その付録に楽譜集がついていた。その「雨がやんだら」の朝丘雪路の顔が付いた譜面だけはなぜか覚えている。

♪濡れたコートで 濡れた身体で
あなたは あなたは
誰に 誰に 逢いに行くのかしら

レコードは見たことはなかったが、ネットで見ると、すさまじいジャケットだ。



中学生だったのになんでこんなませた曲にはまったのか。
やっぱ、年増好みだったのだろう。

ちょうどこの頃、森進一の「年上の女(ひと)」がはやっていた。



小学校6年生の時は、学校の事務のお姉さんに食事をおごってもらい、
中学に入ると生徒会の美人の2年生の副会長に気に入られ、運動会で黄色い声をあげてもらい、
高校に入ってからは上級生の飛び切り美人のお姉さんに私の持っていたゲバゲバのビニール人形をねだられたりした。


好きな芸能人も司葉子とか年増好みで、このままでいくと、本当に飯田蝶子まで行きそうだったが、高校になってまともになり? 南沙織にはまり、年相応の好みになり、岡田奈々、松田聖子と好みの年齢もだんだん下がってきて、私の妻は7つ年下だ。

最上秀樹?

西城秀樹が亡くなった。

私と同級生だ。といっても同じクラスにいたわけではない。
ヒデキがデビューした時には、もう、「博多みれん」で全然ダメだったが次の「青いリンゴ」で野口五郎が売れっ子になっていた。

この年(1972年)の暮、高校生の私は、心斎橋のそごう百貨店のお歳暮の包装のアルバイトをしていた。そこには、なぜかレスリングで世界選手権で優勝した大学生のお兄ちゃんも一緒にいたが、包む技術は私の方がはるかにうまく、どうやってやるのか教えてくれといわれて、変な感じだった。
その時、別世界のような支店長室付みたいな箇所があり、すごい可愛い女の子が何人もいて、彼女たちが、「ねぇ、ねぇ、ゴローってかっこいい。バレンタインにはどのチョコを送ろうかしら」と社員食堂で話しているのを私たち包装労働者は憧れの目で遠くから見つめていた。
その時は野口五郎が人気を独占していたが、翌年に西城秀樹が現れた。

当時、テレビで深夜になると、今でいうプロモーションビデオみたいな芸能ニュースがあり、「恋する季節」でデビューしたヒデキが公園で歌っていた。
たまたま見たのだったが、なにか今までの歌手とは違った雰囲気を持った新人がデビューしてきたなという印象だった。

野口五郎のデビュー曲は全く売れなかったが、西城秀樹のこの「恋する季節」はちょっとは売れた。次の「恋の約束」も売れたが、どんな曲だったかも思い出せない。
3曲目の「チャンスは一度」はみんな知っていてずいぶん売れたと思っていたが、2曲目の方が売れていた。

西城秀樹のイメージを決定づけたのは「情熱の嵐」からだ。
この頃(1973年)には野口五郎が甘い歌声、西城秀樹がワイルドでハスキーな歌声、そして中性的な声でかわいい歌声の郷ひろみと新御三家がそろっていた。

「傷だらけのローラ」が売れていた時、NTV紅白歌のベストテンで催眠術にかかって苦痛の表情でもがき苦しむヒデキに中継会場の渋谷公会堂のファンが「もう止めて、止めて」と泣き叫ぶ場面で、こっちまでが息苦しくなってきて、テレビを見ている人が催眠術にかかって解けなかったら社会的問題になるなといらぬ詮索をしたが、それはなかった。

友達のUは後ろ姿が西城秀樹そっくりだった。雰囲気があって女の子にもモテていた。
ある時、駅の階段を一緒に登っていると、中学生の集団の声が下から聞こえてきた。
「あっ、ヒデキとちゃうか」というと、あっという間に私たちを追い越して駆け上り、振り返って言った。
「ちゃう、ぜんぜんちゃうちゃう。けったいやな。ぶっさいくやなあ」
あたりまえだ。西城秀樹と比べるな!!
こんな田舎の駅に西城秀樹が赤と白の千鳥模様のコートを羽織って歩いているわけがない。

学生の時、劇をした。
できのいい「最上秀樹」にたいして、隣に住んでいる「最低フデキ」の母親役が私だった。

「YOUNG MAN(Y.M.C.A」が1979年に売れてから、80年代になってオフコースの「眠れぬ夜」をカバーしたりして、あまり印象にのこったものはなかった。
が、83年にもんたよしのりが作った「ギャランドゥ」が出ると、何とカッコイイ曲だ!
それまで西城秀樹の全盛期の曲はピアノだけで弾くにはなじまないものが多かったが、この「ギャランドゥ」はピアノでジャズにしてもいかしていた。



ギャランドゥの意味は気にもしていなかったが、ヒデキが亡くなって
「ギャランドゥ」=へそ下の毛 ユーミンが命名 深夜ラジオから浸透
という記事がネットにあった。
「へぇ、そう」と初めて知った。

翌年にWham! Careless Whisperのカバー曲を「抱きしめてジルバ」として出したが、この方が「ギャランドゥ」より売れた。
売れたので郷ひろみも同じ曲を「ケアレス・ウィスパー」とまんまの曲名でカバーしたのかな…???。

西城秀樹 CDシングル売上枚数

とにかくかっこよかった「最上ヒデキ」だった。

2018年5月17日木曜日

ブルースを聴く

「クール・ストラッティン」を聴いたら、無性にブルースを聞きたくなった。
ブルースと言っても、泥臭いブルースではなくて、ジャズのブルースだ。

ブルースの曲ばかり入ったアルバムはあまりない。
私が持っている、ジャッキー・マクリーンの「Bluesnik(ブルースニック)」と和田直の「COCO'S BLUES(ココズ・ブルース)」の2枚だけだが、まだ、あるのかもしれないが…。



オリバー・ネルソンの有名なアルバムに「The Blues and the Abstract Truth(ブルースの真実)」というのがあるが、楽曲はとてもカッコイイが、いわゆるブルース形式ではない。




この2枚。聞きまくった。

私にJAZZを教えたIが「ココズ・ブルース」を聞かせてくれた。
当時はスティープルチェイスから販売されていて、どうしてもほしくなり、近くのレコード店にはないので、心斎橋までいって手に入れた。
ジャケットもかっこいい。全曲、しびれた。
ミディアム・ブルースの「One's Blue」は和田さんのギターから始まり、そのままソロ。そして、粘りまくった本田さんのピアノ。古野光昭のベースもよかった。
「Billie's Bounce」では森剣治のアルト・サックスが馬のいななきみたいなフレーズから始まる。こんな曲調は聞いたことがなかったので、最初、デタラメ吹いていると笑っていたが、聞きこむうちに、病みつきになってしまった。
森さん。今、どうしているのだろう。
続く、アップテンポの「Guitar's Time」で和田さんは弾きまくる。それにつられて本田さんの熱いソロ。
「Sick Thomas」は本田さんのソロからだ。なんてカッコイイんだろう。すっかりジャズにはまってしまった。
コピーしたが、どうやってもあんな黒い音は出なかった。今でも出ない。
最後は古野さんのベースから始まるタイトルチューンの「Coco's Blues」。
CDになってからも何回聞いただろうか。何度聞きなおしても飽きない盤だ。サイコー。



「Bluesnik」は輸入盤しかなかった。ビニールを剥ぐと、輸入盤特有の匂いがした。この盤の曲をCDやパソコンで聞いても、この匂いがしてくる。
ジャッキー・マクリーンもすごくうまいソロもいいが、一曲目の「Bluesnik」でフレディ・ハバードがロリンズの「セント・トーマス」のフレーズを入れたりして、なかなか面白いアルバムだった。



2018年5月15日火曜日

パンストとチョコレート。そして、粋なブルース。

今日5月15日はストッキングの日だそうだ。
ストッキングといえば、ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」のジャケットを思い出す。
久しぶりに見てみると、なんと、どう見ても素足のような気がする。

いや、ナイロンの薄いストッキングを穿いているのかもしれないが、よく、わからない。

Cool Struttin' とは、CoolにStrutする。つまり、粋(Cool)に気取って歩くということだ。
この時代のキャリアウーマンが、戦後の象徴であるナイロンのストッキングを穿いて、タイトスカートでかっこよく歩く、その足元とSonny Clarkのいかした演奏が、みんなの心をとらえた。

1940年代にはナイロンストッキングが大流行したが、第二次世界大戦のためナイロンは貴重品になり、液体ストッキングとペンシルのラインで代用。1950年代にはアメリカでパンティストッキングが発明され、シームレスが新たなトレンドとなったそうだ。(Vogue「ストッキング100年の歴史」)

「クール・ストラッティン」が販売されたのが1958年。
とすれば、やはり、このジャケットのおみ足の持ち主は素足ではなく、最先端のパンストを穿き、ハイヒールで颯爽とニューヨークの街並みをオフィスに駆け抜けていったのだろう。

このアルバムはタイトルロールより、ブルー・マイナー(Blue Minor)の方がはるかに有名だが、やはりこのジャケットにはFのブルースCool Struttin' がピッタリだ。




今年、2018年はアツギによってパンティストッキングが日本で初めて製造・発売され50周年だそうだ。

 ATSUGIのパンストは50周年!!

足が枝のようなツイッギーが前の年の1967年に来日。
おばさんまでもがミニスカート。町中が埋め尽くされていた。

当時のストッキングはガータベルトを使っているタイプだったため、ミニスカートをはいたときに、太ももや下着が見えててしまう心配がありました。 そこでアツギではその女性の悩みを解決するために現在の形のパンティストッキングの生産をはじめ、1968年に販売を開始しました。
と書いてある。

ツイッギーのおかげでパンストが誕生したようだが、もう1つできたものがある。
小枝チョコレートはツイッギーをみて考えたそうだ。
でも、ツイッギーの出ていたCMは、小枝チョコじゃなくて、チョコフレークだった。


68才になったツイッギー。
50年前のおばさんのミニのような太い足にはならず、あいかわらずの細い足のようだ。
チョコをあまり食べなかったからだろうか…?


2018年1月13日土曜日

脳みそ吸ったるで~え


中学校2年に大阪に引っ越した。
福山から南海電車の難波駅に着いたとたん、スリというものを初めて見た。
「捕まえてくれ~え スリだあ!」
と大きな声で、男を追いかける人がいた。
人ごみをかき分けて、スリが走り抜ける。
走りながら、盗んだ財布をごったがえす人ごみの中に、パァーッと空中に投げた。
その瞬間、中のお札が舞い散った。

子どもながらに、とんでもない所に来たと思った。

小学生の頃、友達が大阪の親戚に行った話をしてくれた。
「大阪は怖いでぇ」「頭かちわって、脳みそぐちゃぐちゃにして吸ったるで~え」
という人がたくさんいるという。
なぜか、北九州なのに大阪弁を使っていた。
そのリアル感が恐怖を増していた。

みんな、大阪にはいかないようにしよう。
脳みそをストローで吸われるから。
と真剣に考えていた。

大阪での初めて遭遇した出来事がスリだったからたまらない。
いつ、脳みそをぐちゃぐちゃにされるか。
恐怖におののいていた。

転校して初めてクラスで紹介されると、大阪人は人懐っこくて、いろいろと話しかけてくる。
どうやら、脳みそをかちわるような奴はいないなと一安心していたら、昼休みになってみんなで遊び始めると、「よして! よして!」といいながら集まってくる。
なんだ!なんだ!
「よして」と言うならやめればいいのに、反対にどんどん人が増えてくる。
横にいたのにきくと、「よして」とは仲間に入れてくれの意味だと教えてくれた。
ああ、「かてて」の事というと、何やそれ、自分おかしな言葉、話すなぁ。と言われた。
言っている本人が、自分がおかしな言葉を話すと言う。
ますます頭がこんがらがってきた。
私はとっさに判断した。
これが「脳みそぐちゃぐちゃにして」ということではないだろうかと。

家に帰ってから、明日学校に行くと、脳みそ吸われるかもしれない恐怖で思わず涙を流してしまった。

2018年1月12日金曜日

「西郷どん」と「縁は異なもの」

NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」テーマ曲の出だしが、ダイナ・ワシントンの歌で知られる「縁は異なもの(What A Difference A Day Made)」になんとなく似ている。
曲全体の雰囲気は全く違うが、初回にテレビでテーマ曲が流れると、すぐに「縁は異なもの」が浮かんだ。


この歌。
「あなたに声をかけられて、たった1日でなにもかもすっかり変わってしまったの」という恋の歌。



「西郷どん」は男にも女にもモテた。
人をひきつける魅力は尋常じゃなかったに違いない。
「西郷どん」に声をかけられて、たった1日でなにもかもすっかり変わってしまったのではないか。

ちなみに、ダイナ・ワシントン。
ミュージシャン仲間にとてもモテた。
それはなぜか。
分け隔てなくみんなに体を許したそうだ。

「西郷どん」と犬

ここで言う「西郷どん」は隆盛ではない。
弟の「従道」だ。
司馬遼太郎の坂の上の雲には「つぐみち」とルビがあったが、今は「じゅうどう」と呼ぶらしい。
NHK大河ドラマでは、関ジャニの錦戸亮が演じているが、茫洋とした従道の雰囲気からは程遠い。



この従道が政府の役人として東京に行くとき、鹿児島の人たちはとても羨ましがったそうだ。
そのわけは……。

西郷どんはよかねぇ
東京には犬がどっさいいてうまやましか。

当時、鹿児島では犬肉を食べる文化があったそうだ。
いち赤(あか) に黒(ぐろ) さんぶち よん白(しろ)と言って、赤犬が一番うまいという。

私も犬の肉を食べたことがある。
金がない学生時代、大阪の釜ヶ崎で、犬の肉が売っていた。
一番上等な赤犬でも1キロ100円。
硬かったが、すきっ腹にはうまかった。


司馬遼太郎の「坂の上の雲」には従道のエピソードがたくさん書いてある。

サーベルを吊った幇間(たいこもち)と言われた桂太郎が、伊藤博文が内閣をなげだしたあと、明治34年6月2日、はじめて首相になった時、準元老のひとりである西郷従道にこの世間の不安を訴え、桂では貫禄がありますまい、というと、大笑いして、
「貫禄なんぞは、大礼服を着せて何頭立ての馬車にのらせて何度か往復させると、もうそれだけでつくものでごわす。それだけのものでごわす」といったほど大物だった。


日清戦争が終わった明治28年の国家予算が9160余万円であったのに、山本権兵衛が海軍に2億円(2018年度の97兆7100億円で換算すると、なんと213兆円という途方もない金額)という途方もない「海軍拡張計画案」というのが提出した。第3次伊藤博文内閣のころだ。その時の海軍大臣が西郷従道。

伊藤も大蔵大臣の井上馨もにがりきってしまい、従道に井上が、「西郷さん、どうもあんた、まじめにやってもらわねばこまる」といった。
西郷は、どんな意味だえ、ときくと、井上は声をあげて、こんなばかな予算請求があるか、2億円とはなにごとです、といった。西郷も負けずに大声をあげて、
「井上サン。ああたも伊藤サンも、ご同様に海軍のことはおわかりにならん。そういう仁(じん)に海軍のことを話してもむだというものです」
といった。伊藤も井上も大いにむくれ、われわれがわからぬから、海軍大臣たるあなたはそれを説明する必要があるのではないか、と迫ると、西郷は、「じつはわしもわからん」とアッハハハと笑ったという。

どれほど大物とおもわれていたか。

人物が大きいというのは、いかにも東洋的な表現だが、明治もおわったあるとき、ある外務大臣の私的な宴席で、明治の人物論が出た。
「人間が大きいという点では、大山巌が最大だろう」
と誰かがいうと、いやおなじ薩摩人ながら西郷従道のほうが、大山の五倍も大きかった、と別のひとが言ったところ、一座のどこからも異論が出なかったという。

もっともその席で、西郷隆盛を知っているひとがいて、「その従道でも、兄の隆盛にくらべると月の前の星だった」といったから、一座のひとびとは西郷隆盛という人物の巨大さを想像するのに、気が遠くなる思いがしたという。


そんな人たちが登場する大河ドラマ「西郷どん」。
まさか、犬の食べるシーンはないと思うが……。
これからが楽しみだ。

2018年1月9日火曜日

無謀にも教員採用試験に挑戦!

インフルエンザに懲りて、大阪から九州に帰ってきた。
大学は中退しているので、小学校の教員にでもなろうと思いついた。
早速、教員養成所の入試を受けた。
不精髭でむさくるしい私服は私だけだった。
スケジュールを書いた黒板を見ると記述試験終了後、面接がある。
見落としていた。
私一人だけ異様だった。

次の日、早々に不合格の通知が届いた。
この養成所を卒業した妻が言うには、風紀にはとても厳しかったそうだ。
試験問題ができたがどうかはわからないが、できていたとしても必ず不合格だっただろう。

その時、玄関に教員採用試験の合格者が張り出されていた。
たったこれだけという人数だったので、びっくりした。
教育大学だともっと合格率が高いと思ったが、採用試験対策ばかりやる養成所や女子大のほうが合格率は高いとわかり、とても、教員にはなれないなと諦めた。


その私が、何故、再び小学校の先生になろうと決意したのか。
当時、付き合っていた彼女が中学の音楽教師で、父親も校長を目指す中学の教頭だったからだ。
彼女は言った。父が、どこの馬の骨ともしれない男に大事な娘とは付き合うことも許さない。教員しか認めない、と。
憧れのお嬢様だったから、無謀にも当時50倍はあった小学校の教員採用試験に挑戦した。
といっても、試験まで1か月しかない。

教員をしている友達のUに相談すると、採用試験に二浪しているYさんを紹介してくれた。
尋ねると、部屋の壁の4面に1年間365日の時間割が貼ってあった。
1日10時間以上、びっしりと書き込まれたスケジュール表だった。
これを本当にやったんですか? と聞くと、はい、全部やりました。それがこれですと、何十冊ものノートを見せてくれた。
彼は早稲田を出て、東京で企業に勤めたが、どうしても小学校の先生になりたくて、会社をやめて九州に帰って受験勉強をしているが、2回ダメだったという。
見ただけで頭痛がしてきた。

私は人生においてほとんど勉強をしたことがなかった。
高校は入試問題直前2週間という薄っぺらな本を1週間で挫折して受けた。
大学は現役では1校1学部しか受けず、しかも、全くわからないので、一番前でストーブの温かさに負けて寝ていた。
予備校の試験にも落ちて無試験クラス。途中はほとんど行かずに大阪の難波で遊んでいたが、さすがに直前1か月間はラジオ講座をまじめにやった。
そのくらい勉強していなかったので、この時のショックは計り知れないものがあった。
早稲田で、365日×毎日10時間×2=7300時間。とんでもない天文学的な時間だった。

自分なりに計画を立てた。
生徒に教える教授法を最初に読んで、それを参考にした。
一番に目に入ったものが、「エビングハウスの忘却曲線」。
無意味な言葉をどんどん覚えさせても、1時間後に半分、一日たつと1/4しか残らないという実験だ。
これはいいことが書いてある。
まじめにこつこつとノートをとってもすぐに忘れてしまうのでそんなものはムタだと解釈した。

7300時間に対抗する方法を考えた。
過去に知り合いが受けた教員採用試験問題集をUが30冊ほど集めてくれた。
小学校はもちろん、中学、高校教員用のものまであり、積み上げるとかなりの高さになった。
幸いなことに答え合わせのために、正解がすべて書き込んである。
その問題集を上から下まで全冊片っ端から、答えをひたすら見ていく。ただ見るだけ。
ノートは一切取らない。
勉強は質より量。忘れてもかまわない。
どうせ覚えても忘れるのだから、また見る。その繰り返し。
見るだけだから、時間もかからない。気楽にやれる。
何度も見ていると、傾向性もわかるし、似たような問題もたくさん出てきて、どんどんわかるようになってきた。
仕事も忙しかったので、1日2時間ほどこれをやった。
そのうち、いつもの悪い癖が出て、本の題名に魅かれて、どんな本だろうと興味が湧いてきた。
時間もないのにペスタロッチの「隠者の夕暮れ」やデューイの本などを読んでしまった。

あと一週間に迫った時、Yさんから一緒に勉強している4名のメンバーと喫茶店で最後の受験対策をやるので来ませんかと誘われた。
自分がどのくらい身についているかを確かめるいい機会だと参加した。
そこで初めて聞いた言葉。「学習指導要領」。
聞いたこともない言葉だった。
Yさんたち全員が、「指導要領も知らないの!」と声をそろえるほど、びっくりしてあきれ返られた。
その日は「指導要領」の暗記具合を確かめるものだったので、チンプンカンプンで、こんなに勉強した人たちが受けるのか。それにみんなも何回も挑戦していると聞いて二重にショックを受けた。
何もわからずにポカンとしている私に、みんなは「指導要領」のポイントとか、採用試験の重要な部分を占めて、配点も高いなど親切に教えてくれた。
ライバルとはみなされなかったからだろう。

とにかく手に入れないといけない。近くの本屋に行くとそんなものはないという。
天神まで行って、小学校用の全教科を買ってきた。
「指導要領」対策の繰り返し見る作戦をプラス1時間増やした。

受験当日、周りの受験生はみんな自分がやってきた問題集をもって、試験が始まるギリギリまでそれをやっていたが、私はあまりに膨大な数だったので1冊も持っていかなかった。
目のやり場がなく、ずっと外の樹木を見つめていた。
みんなはそれを白い目で見ていた。たぶん、きっと冷やかしだろう。受かるつもりがないから…と。

いよいよ試験が始まったが、やってみると案外簡単だった。
帰宅してから、絶対に受かっていると、Uの家に行って事前の合格祝いをやった。

結果は…
合格。
こんないいかげんな私が通ったのだから、Yさんも絶対に合格していると確信して、お礼に伺って「合格おめでとうございます」というや、Yさんの家にいた友達が「きさま、いいかげんしろ。ぶん殴るぞ」「自分が通ったからといって、人をバカにするのもほどほどにしろ」と烈火のごとく怒った。
5人グループは全員不合格だった。

2次試験は、面接、ピアノの弾き語りと水泳だった。
面接は5人ぐらいのグループに分かれて、それぞれ読んだ本の感想を述べるみたいな内容だったと思う。
一番目に発言したが、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に感動していたので、我ながら滔々と話した。
今読むと何をそんなに感動したのかわからない。

問題はピアノの弾き語りだ。
ピアノは手慣れたものだが、歌はとにかくヘタ。
前の順番の女の子は、弾き始めるやいなや面接官に演奏を止められ、泣き崩れた。
人前で歌を、しかもこんなスチュエーションで……。
緊張が走った。
「とべとべトンビ」を選択していた私は覚悟を決めた。
ピアノ協奏曲みたいなイントロで始まった「トンビ」は、歌が始まると同時に、面接官も周りも思わずプッと吹き出すようなものだった。
そのイントロと伴奏で、次の受験者が全く弾けなくなって申し訳なかったが、歌をカバーするためにはそれも仕方がないと心を鬼にした。

最後は水泳だ。何メートルのプールだか忘れたが、往復の距離を泳ぐものだった。
私はクロールができない。歌同様、とにかくヘタ。でも、平泳ぎは自信があった。
平泳ぎとクロールでは圧倒的な差がある。私以外は全員クロールだった。
ここでビリになれば、不合格になるかもしれない。とにかく全力で挑もうと必死で水をかいた。
泳ぎ終わって顔を上げるとゴールには誰もいない。
どうしよう。完敗だ。と思った瞬間、バシャバシャと音が聞こえ、残りの人たちがゴールしてきた。
一番早かったのだ。いや、クロールが全員遅すぎたのかもしれない。

2次試験も合格した。

が、決定的な問題があった。
教員免許を持っていなかったのだ。
教員免許を持たなくても採用試験は受けられた。

通信教育という手もあったが、それでは採用試験の有効期間が切れてしまう。
教員資格認定試験というものがあることを知った。
内容をみると採用試験など問題にならないほどの難問だった。
数パーセントしか合格しないという。

とにかく、それを受けるしかなかった。
これは採用試験と違って、教職に関するものと、教科を選択したもので受験する。
数学と音楽と家庭科を選んだと思う。
数学もできた。音楽は完璧。あとは家庭科を残すのみ。
これで受かったかなと思いながら、家庭科の問題が配られた。
料理方法とかミシンの使い方ぐらいかとあまく考えていたが、グラフばかりでもこれは何を表しているとか、見たことのないものばかりで、結局、1問も解けなかった。
家庭科がこんなに奥深いものだとは知らなかった。


結果は不合格だったが、あまり落ち込まなかった。
その前に彼女から不合格を告げられ、別れていたから……。
私のせいで教員になり損ねた方、不純な動機でごめんなさい。


その後、周りにはたくさんの教員試験浪人がいたが、この勉強法を教えると、みんな合格していった。
Yさんだけは、プライドを傷つけられたみたいで聞く耳を持たなかったが、1万時間をこえる圧倒的な勉強量で合格し、後に教頭にまでなった。