2017年12月31日日曜日

風邪と共に去りぬ

年末、久しぶりに風邪をひいた。
マンションなので少し着込んでいれば冬でも暖房はつけなくてすんでいた。
ところが、今年はとにかく寒かった。
気温が急に下がったせいだろうと思っていた。
体を温めようとコーヒーを飲むと後で寒くなる。紅茶だと少しはましだった。
布団にくるまっても寒くて夜中に何度も目が覚める。
これも寒さのせいだと思っていた。
4、5日続いた。
念のためにと熱を測ると36.7度。微熱がある。
鼻水も止まらないので、医者に行くと、ただの風邪だといわれ、咳止めと鼻水止めの漢方薬、それに点鼻薬というものを初めてもらった。
これには感動した。つまった鼻が1滴でスゥーッと通じる。かえって恐ろしい。
診察の最後に医者から「いいですか、2、3日して熱が38度以上になったらインフルエンザかもしれないのでその時は来てください」といわれた。

自慢にもならないが、インフルエンザの症状に関しては私の方が熟知している。
12回も罹ったからだ。
最初は大阪で22才の時。これにはまいった。一人暮らしでご飯も食べられない。熱もきつかったが空腹でがまんできない。
そのまま大阪で暮らしていこうとずっと考えていたが、二度とこんな思いをしたくないと、実家のある福岡に帰ってきた。
インフルエンザが大きく運命を変えたといっても過言ではない。

1年に3回、立て続けにかかったこともある。
A香港型とAソ連型にB型。
型が違うので3回もかかってしまった。
免疫は1年しか続かないから、また元の振り出しに戻ってしまう。

今では、インフルエンザは感染力が強いので絶対に会社や人の多いところに行ってはならないとなっているが、若い頃は熱があっても仕事に出ていた。
元々、熱には強い。
体温計は38.5度。熱があったのでなんとなくだるいので、病院に行くとインフルエンザだと診断された。
次の日は体も軽く、さすがにタミフルはよく効くなと、熱を測ると39度。
39度だとあまりきついとは思わない。
私だけが異常だと思っていたが、同じ職場の経理担当もそうだという。彼女も熱が出ても膨大な量の経理書類をたんたんとこなしていた。

一度、40度を超えたことがある。あまりにきつさに、今までもらっても一度も飲んだことのない解熱剤を使った。医者から座薬は強すぎるとからと軽い錠剤をと渡されたものだった。
飲むと嘘のように熱が下がった。
こんなに効くのだったらもっと早く飲めばよかった、と安心して寝ていると、突然、天井がグルグルと回り始めた。
吐き気がして、本当に死ぬかもしれないほど苦しかった。
薬をネットで調べると、厚生省がこの薬はとても危険で何人も死者が出ているので使用は控えるようにとの記事が載っていた。
それ以来、すいているという理由で通っていたその個人病院には行っていない。

熱が下がってくると、大量に汗をかく。
そろそろインフルエンザも治り始めたその後に、本当のきつさが襲ってくる。
微熱にはとても弱い。
以前の平熱は35度。とても低い。だから37度前後がたまらなくだるい。38度以上よりもきつい。
咳が3か月ぐらい止まらなくなり、痰も絡む。
抗生剤をもらうがなかなか治らない。毎年、その繰り返しだった。

妻が咳が止まらないのは喘息の気があるのかもしれない。呼気NO(一酸化窒素)濃度測定で評判のいい病院に一度診てもらったらというので、早速、行ってみた。ものすごい人数だった。
やっと順番が来て、呼気NOモニターに息を吹き込んだら、うまくいかなかったので、もう一度と言われ、今度はちゃんと測定できましたと看護師から言われた。
しばらくたって医者から、診断が下された。
「数値は100を超えています。喘息です」

とりあえず、気道の炎症を抑えて発作を予防する「レルベア200エリプタ30吸入用」というステロイド薬を吸引しなさいと、全部で薬代が5種類で6000円もかかった。



帰って調べると、日本人の成人健常者における呼気NO濃度の正常値は約15ppb。上限値の約37ppbをはるかに超え、100以上は呼吸困難で即、緊急入院レベル。
ステロイド薬をまじめに吸引したが、症状はいつもと変わらない。この医者もいい加減。

4、5年前、最後にインフルエンザに罹ってから、平熱がなんと36度になった。ずっとそのまま続いている。それ以来インフルエンザにはかかっていないし、風邪もあまりひかなくなった。


この暮れに何故、風邪をひいたか。思い当たる節がある。
職場に行くと、となりの同僚がマスクをしていた。
どうしたのかと聞くと鼻水がとまらないのだと言う。
マスクをとると右の鼻の穴にテッシュをつめていた。
生まれてこのかた一回も風邪などひいたこともないのにまいったと話す。
何日間も横で話をしていた。
数十年、風邪をひいたこともない人の傍にいては、私が獲得した微弱な免疫力など太刀打ちできなかったに違いない。


そんなこんなで散々な年末だった。
咳や鼻水はまだ出ているが、気温も上がってくると同時に熱も下がった。
Gone with the Wind ならぬ Gone with the cold
風邪と共に2017年も去っていく。

2017年12月18日月曜日

終わったシリーズ第3弾 「直虎」とラヴェル

終わったシリーズ第3弾

第1弾 べっぴんさんと大阪万博70'
第2弾 「ひよっこ」終わる


「おんな城主 直虎」が終わった。1年なんてあっという間だ。
視聴率はあまりよくなかったらしいが、「本能寺が変」など新しい歴史解釈もあり、毎回楽しみに見ていた。
今年の5月に「井伊直虎の生涯 不屈にして温柔」と題して、作家の梓澤要さんの話をNHK第2ラジオで聞いた。さっそく「井伊直虎 女(おなご)にこそあれ次郎法師」を読んだ。
NHKの大河ドラマと違う部分もかなりあり、かえってそれが面白かった。



大河ドラマの音楽は「花は咲く」を作曲した菅野よう子。
テーマ曲「天虎 ~虎の女」の演奏はパーヴォ・ヤルヴィ指揮のNHK交響楽団とラン・ランのピアノ。パンダではない。

この曲がかかるたびにラヴェルの弦楽四重奏曲が浮かんでくる。

1990年になると、CDが主流になってきた。
CDは画期的だった。
腫物を触るように取り扱い、年に一度カビがついていないか確認。薄いビニールで覆われている輸入盤なんか初めからカビだらけのものもあり、手入れも大変だったレコードに対して、CDは手軽で、手あかがついても簡単に拭けた。何度聞いても擦り減らない。置き場所もラックに何段にも収まる。
レコードだと、たまにカートリツジを落とし損ねて、針が曲がってしまうばかりか、レコードに傷がついて、その個所になると、プツ、プツ、プツと悲しそうに「お前のせいだ…。あぁ、痛い」と何度も繰り返す。
傷がつかなくても、ほこりが入り込んでプチプチいう。本当に面倒くさかった。

CDは初めはクラシックが多かった。といっても数枚だ。
ジャズのレコードは3000枚くらいになり、有名な定盤からレアものまで揃えていたからだろう。
レコード2000円ぐらいだったが、CDは3000円以上した。
裏の印刷されていない鏡のような面に傷がつかないよう、緑や黒のちょっとふわっとした保護シートを買うたびにくれた。今はそんなものはつける必要はないことがわかっているが、町の図書館でCDを借りるとケースにたまにそれがついていることもある。



最初に買い求めたのは、アルバン・ベルク弦楽四重奏団「ドビュッシー&ラヴェルの弦楽四重奏曲」。
もちろんラヴェルという名に魅かれてだ。ベートーヴェンじゃなくてよかった。大フーガなんて買っていたら、もうクラシックはいやだと思ったかもしれない。
カップリングされているドビュッシーも弦楽四重奏曲は1曲しか書いていない。地味に聞こえる弦楽四重奏、フランス人はあまり好まなかったのだろうか。モーツァルトは23曲、ベートーヴェンは16曲、ハイドンはなんと80曲以上も書いているのに。

ラヴェルの第1楽章の第2主題の胸を締め付けられるような甘美な旋律に、世の中にこんな美しい音楽があるのだろうかと、何度も繰り返し聞いた。



そのメロディーと「天虎~虎の女」がどうして混じり合うのだ。
チャンチャチャ~ンのイントロではない。曲のメロディーだ。「天虎~」を頭の中で鳴らしていると、いつのまにかラン・ランのピアノやN響のオケの音はフェイドアウトして、弦の音だけになり、ラヴェルになる。

おなじヒポフリギアという教会旋法の音律が使われている。シドレミファソラシという音階。
ちなみに第一主題はミファソナシドレミのフリギアだ。
曲の雰囲気がものすごく似ている。
服部克久の曲を小林亜星が訴え、最高裁で服部克久が負けた「記念樹」どころではない。

このCD、久しぶりに聞いてみようと思った。
普段ならラヴェルの弦楽四重奏曲しか聞かないが、最初に入っているドビュッシーは20年以上聞いていない。
どうせならと、ドビュッシーからかけた。
ラヴェルはモノクロのイメージがあるが、ドビュッシーには色がついてるな。などと思いながら聴いていると、な、なんと、雰囲気がよく似ている。第一主題はヒポフリギアではないか。
この弦楽四重奏曲、ラヴェルは、さすがドビュッシー、出来がいいな、といっていたという。
ラヴェルが弦楽四重奏曲は1902年。この曲を作った頃、フランスの最も権威のあるローマ大賞の音楽賞に何度も挑戦していたが、結局、第1等はとれなかった。ドビュッシーの弦楽四重奏曲は1893年、ほぼ10年前だ。
ということは…。
ドビュッシーがオレの曲をまねしやがってと、今の日本の裁判所に訴えたら、絶対にラヴェルは負けている。
そして「おんな城主の直虎」をも打ち負かす、私の大好きな弦楽四重奏曲は永遠に演奏を聴くことができなかったに違いない。
でも、それは絶対にないだろう。
ドビュッシーはラヴェルの曲よりも女性の方に興味があったから。
おしまい。

2017年12月17日日曜日

女神からヨーロッパ

ラヴェルに恋するしかなかった私は、すぐに心斎橋のミキ楽器に向かった。
棚にずらっと並べてあるうすい緑にオレンジの帯の全音の楽譜を探してもどこにもない。
黄色い帯にも、青い帯の楽譜にもラヴェルのソナチネはなかった。

店員に尋ねると、ここにございますと、輸入楽譜のRの棚に連れて行ってくれた。
あった。ペラペラの楽譜だった。
開いて確かめると、みどり先生の弾いたのは第3楽章だった。
薄いので安いかと思ったら、分厚いベートーベンのソナタ全集より高い。
小遣いが限られていた高校生には手が届くものではなかった。




最初のレッスンの日が来た。
妹がピアノのレッスンで使っていたバイエルとブルグミュラーをカバンに入れておばちゃんちへ向かった。

麗しの女神。みどり先生がそこにいた。
私は、バイエルとブルグミュラーを見せて、「先生、やっぱり、ピアノといえば、これから始めるのでしょうか」と取り出して言った。
先生は、「他の生徒にはそれを使うけど、あなたには使わない。」と、ラヴェルのソナチネより更にペラペラの楽譜を目の前においた。
私は一瞬、目を疑った。そこに書かれた文字は『ピアノの一年生』だった。



あの誰もが弾くアラベスクが載っているブルグミュラーよりさらに簡単なものだった。
「えっ、これですか」
「そう、ちょうど新しい教材を使ってみようと思った時に、あなたが来たから」と言われた。
ベラ・バルトークが考案したピアノの初心者のための教材だった。

少しも動じなかった。みどり女神は師匠だ。どんなことでも従っていこうと肝に銘じていたからだ。

とはいえ、最初はドレミファミレドからはじまるユニゾン。
簡単、簡単と弾くと、先生はフレージングがなっていない。一音一音の音符の長さもそれぞれの音の強さもバラバラで、均等に音が鳴っていない。全然、ダメという。
何度も何度も繰り返して弾かされた。
「よく、音を聞いて。ほら、左手の薬指の音が特に弱いでしょう。」
「親指に力が入って外に反っているわよ。意識して、もっと脱力して。」
言われれば、言われるほど頭が混乱して、指先の動きは不安定さが倍増していく。
レッスンの1時間はあっという間に過ぎて、12小節の初歩の初歩の一曲で終わってしまった。
とても疲れた。
このままでは、恋したラヴェルは聳え立つエヴェレストの頂上より遥かに高く、公園の幼児用の滑り台でさえ登れないのではと憔悴した。

家に帰ってから、『ピアノの一年生』と共にもらった『ハノン』で指の練習をするのだが、自己流で始めたピアノなので、どうしても親指に力がはいる。

次のレッスンで、初めに親指の話をしたら、構造上、親指は反りかえりやすいという。
親指が外に曲がらないように、先生の家では、小さいころから、ひねるところが3つの突起になっているものではなく、一本のレバーになっているものにすべての蛇口にかえたという。正真正銘のお嬢様だ。

どんな、音符の存在にも意味があり、大切な役割をになっていることを叩きこまれた。
書かれていなくても下に向かっている音か、上に向かうものかも丁寧に教えてくれた。
バルトークはハンガリー生まれの作曲家だから、その音階や響きは独特なものもある。最初は違和感があったが、先生から教わるごとに、言い古された表現だが、音苦が音楽になっていった。

普通のピアノの先生なら、全く経験もない大人の初心者でも早ければ2、3か月で終わるであろう『ピアノの一年生』を半年かけてやった。
その間、ハノンやチェルニーの30番も併用したが、この『ピアノの一年生』で徹底的に、音符の読み方、曲の解釈、曲想での指の使い方などを叩きこまれた。

やっと「一年生」を卒業し、つぎもバルトークの練習曲集『ミクロコスモス』を渡された。
名前がカッコイイ。
『バルトーク ピアノの一年生』と印刷されていたものから、楽譜には日本語が一切書かれていない完璧な輸入楽譜。



「ミクロコスモス」。辞書で調べると「小宇宙」。
エヴェレストの上をいくものではないか。
茶色の表紙の楽譜を見つめワクワクした。
5巻まであって、最初の1巻は『ピアノの一年生』より簡単なものだったが、みどり先生に音楽を教え込まれた私は、もうこんなものとは思わなかった。
最後までいくと「小宇宙」どころか、どんな「マクロコスモス」に行けるのだろうかと、その日は眠れなかった。

期待に胸を膨らませた、一回目の『ミクロコスモス』のレッスン日。
みどり先生が、少し残念そうな顔で私に言った。
「ごめんなさい。母校で音楽の講師をやらないかとの話があり、あなたへのレッスンがもうできない」
なんてことだ…。目の前が真っ暗になった。小宇宙がブラックホールに吸い込まれてしまった。
「でも、安心して。次の先生はもう決めているから。ヨーロッパ留学から帰ったばかりの優秀なピアニストだから」と。
その後は覚えていない。それほどショックだった。

女神は去って行ってしまった。いや、かぐや姫だったのだろうか。
でも、気を取り直して、ヨーロッパ帰りのピアニストに会う日を待ちわびた。

ついに、その日が来た。
ヨーロッパはみどり先生とは正反対だった。名前はおろか姓も顔さえ覚えていない。
お嬢様とはほど遠いケバケバしい場末のスナックのホステスみたいだったことだけは確かだ。
おばちゃんが紅茶を出してくれると、ヨーロッパから買ってきたという小さな缶を取り出し、中から小さな錠剤みたいなものを2粒取り出して紅茶にポチャンと入れた。
「砂糖で太るといけないの」
「それ、なんですか、チクロですか。」
と聞くと、ヨーロッパは「イヤーね。チクロは有害って知っているでしょ。サッカリンよ」と、その名のごとく砂糖の何百倍もの甘ったるい声で言った。
その声は、サルトルが言う、トネリコの根がまとわりつくように、私の心にべっとりとこびりつき、心を逆立てた。

ええい、やめてしまおうかとも思ったが、せっかく紹介してくれたみどり先生に申し訳ない。
それ以上にひょっとしたらこのヨーロッパ、すごい先生かもしれないと、湧き出ようとする嫌悪感をゴクンと喉を鳴らして飲み込んだ。

いよいよ、レッスンが始まった。
みどり先生からもらった『ミクロコスモス』を取り出し、アップライトピアノの蓋の楽譜立に開くといきなり言った。
「ふん、こんな簡単なもの。あなた今まで何やってきたの」とのたまった。
な、なんだ。私とみどり先生の充実した日々をすべて否定したヨーロッパは、持ってきたソナチネアルバムのモーツァルトのハ長調ソナタのところをひろげた。
「さあ、弾いてみて。あなたがどのくらいの程度がみてあげるから」
わたしが引っ掛かりながら弾き始めると「もういいわ。わかった。こんなのも弾けないのねぇ~」と冷たい声で言った。
「じゃあ、先生、見本を聞かせてください」と言うと、
「いいわよ」とピアノに向った。
素晴らしい演奏だった。と言いたいが正反対だった。
本当にヨーロッパ帰りか。
みどり女神に鍛えられた私の耳にはそうしか聞こえなかった。
さすがに、留学ピアニストの端くれだろう。言い訳をした。
「今日は調子が悪いわ。いつもならサッカリンは1粒なのに、今日は2粒入れちゃったから」

その頃、ピアノを習う動機のひとつであるベートーベンみたいなソナタを書いてみたいという目標に挑戦していた。
ベートーベンのソナタ第1番ヘ短調をひっくり返したようなものだったが、とりあえず完成した。
鉛筆で五線紙に丁寧に丁寧に音符を書き込んだ。

その記念すべき私のピアノソナタ第1番をピアニストがどのように鳴り響かせるのか。
身近なピアニストはヨーロッパしかいない。
意を決して、ベートーベンに影響されて作曲したと、ヨーロッパに見せた。
じっと見つめ、ヨーロッパは口角の下がった口を開いた。
「楽譜の書き方がなってないわ。こんなんじゃ弾けないわ」
「とにかく、弾いてみてください」
ビアノに向かったヨーロッパの演奏はヨレヨレだった。
途中でやめると、
「こんなもんじゃ、ベートーヴェン様に申し訳ないわ」とヴェの部分は下唇を歯に当てて発音した。
その頃の私はクラシックのピアニストの大半が初見が苦手なことなど知らなかった。
それにしても想像を上回るヘタさだった。

終わるととんでもないことを言い出した。
「ちゃんとした音楽教育がなされてないのが悪いのよ。友達が教えている高校じゃ、ベートーヴェン様のソナタを弾く子がいて、通知表には5をつけたって言ってたわ。あとはダメ。あなたもイチからちゃんと音楽の勉強をしたら」
私は怒りを通り越してあきれ返った。目の前のヨーロッパと友達の顔を想像した。
音楽大学にはお金持ちのお嬢様が通っているけど、みどり先生のような人はまれで、あとは魑魅魍魎の世界だと勝手に解釈した。
後に高校の音楽教師から音楽大学に行かないかと言われた時も、ヨーロッパを思い出して頑なに拒んだほどトラウマになった。もっともお金もなかったが。

「ベートーヴェン様」で私の腹は決まった。
もう、クラシックはやめよう。
レッスン教室のおばちゃんに「勉強に専念したいので、残念ですが辞めます」とウソをついた。
時同じく、Iが聞かせてくれたビル・エヴァンスに心を奪われかけていた私は、一気にジャズ一筋にのめりこんでいった。
みどり先生ごめんなさい。
ビアノソナタ第1番は失くしてしまったが、先生との思い出、「ピアノの一年生」と「ミクロコスモス」は今でも本棚のすみで眠っている。女神との夢をいまだに見続けたいから。

2017年12月16日土曜日

ラヴェルに恋して

高2になってウッド材に覆われたセパレート・ステレオが我が家に鎮座すると、赤いプラスチックの真ん中がパカパカ開くホータブルステレオで聞いていたモンキーズのLPやベンチャーズの4曲入り赤いEPでは、その堂々とした威容に申し訳ない気がした。



そこで、買い求めたのが本物を聞いたアルフレッド・ブレンデル演奏の「ベートーベン3大ソナタ」とヘルムート・ヴァルヒャの「インヴェンションとシンフォニア」の2枚だった。

ヴァルヒャ盤を買い求めたのはなぜだろう。その後、ジャズに凝りだし、3000枚もレコードを買ったが、ほとんどどこで買ったか覚えていた。レコード棚から上に引き出した時の指の感触とジャケットで記憶していたのだ。それなのにこのレコードには全く記憶がない。バッハという名前だけで買ったのだろう。



ワクワクしながら灰色のザラザラした紙に真ん中に白黒のヴァルヒャの横顔のジャケットから慎重に盤を取り出し、ターンテーブルのゴムの上に乗せ、カートリッジを下すと、とてもガッカリした。
ピアノではない。ハプシコードだった。が、その音楽には心惹かれた。

こんな風に弾いてみたい。それどころか、恐れ多くもバッハやベートーベン(当時はこう表記していた。今はベートーヴェン。こちらの方がリッパに感じられるから?)のような曲を書いてみたいとの衝撃にかられたのだ。
知らないことほど怖いことはない。

こんな私でもさすがに独学でその域に達することができるとは思わなかった。そんなことができたのは、赤い塩ビの朝日ソノラマのソノシートで聞いた幻のソ連の天才ピアニスト、リヒテルぐらいだ。それはずーっと後で知ることなのだが。

小学校1年でやめたオルガン教室以来、オルガンはおろかピアノも習ったことはない。
幸いなことに、我が家のステレオが右の音しか鳴らないと気づかせてくれたIがピアノを習いはじめたが、すぐにギターをやりたいのでやめたばかりだという。
おおー、渡りに船。
一緒に連れて行ってくれと頼んだが、やめたから行きたくないという。
近くだったので場所を教えてもらい、一人で尋ねた。個人の家だった。
おばちゃんが出てきて、誰、どうしたの。と聞かれ、事情を話し、ピアノを習いたいのですが、というと、今日は先生は来ていないので後から連絡してくれるとのことだった。
しばらくしてこの日だったらいいよと電話があった。

その日が来た。アップライトピアノのある居間に通された。
そこには、清楚で上品、しかも美人の先生がいた。思春期まっさかりの少年が憧れる典型的なパターン。ドキドキした。
先生は私に名刺をくれた。うまれて初めて名刺というものをもらった。更に動悸は増した。
「河方みどり」と印刷されていた。
独学でやってきたが、いずれはベートーベンを弾きたいというと、みどり先生は、「弾いて聞かせて」といった。ピアノには簡単な楽譜が置いてあった。
Nとの対決を大勝利で飾って以来、歌のテストがある時以外は、通知表で10段階評価の10だった私は、自信をもって鍵盤にむかった。
「なんだ、こんなもの。よし、どうだ」と弾き終えると、先生はニコっと笑って、さわやかな声で言った。
「あなたの演奏は自分に酔いしれているだけよ」
な、なんという残酷な言葉。
大阪万博で来日して以来、空前のブームとなったカラヤン。同級生もクラシックの演奏家など知らないから、カラヤンと呼ばれていた私がだ。しかも、こんな幼稚な曲に。
こんなこといわれたのは初めてだ。
容姿に惑わされてはいけない。顔は女神だが、心は悪魔かもしれない。
思春期の憧れなど吹っ飛び、ムッと来て「どこがですか」と聞き返した。
みどり先生は、その楽譜を指さしながら言った。
「なぜ、ここにスラーが書いてあるかわかる?」
簡単ではないか。バカにしているのか。
「なめらかに弾けということでしょう」
なにも応えず、「じゃあ、次のスラーは?」
なにを言っているのかわからない。
さらに、「複数のスラーのかかった音節の上にさらにスラーがかかっているのは、どうしてなのかわかる」
ますます、言っていることがわからない。

困惑して何も答えられなくなった私に、先生は丁寧に説明してくれた。
動機(モチーフ)の組み合わせや発展で構成されている音楽にはフレージングというものがあり、たんにスラーやスタッカートがついているのではない。
作曲家がなぜそれらの記号をつけているのか。それらを読み取ることによって人に聞かせることができる音楽になる。といって、実際に解説しながら演奏してくれた。
簡単なつまらない曲が、名曲に聞こえた。まったく違ったものだった。
音楽ってこんなに奥深いものだったのか。
こんな曲でさえ、いろいろと解釈があるのに、もっと複雑なベートーベンなんて何十年もかかってしまうのではないか。
衝撃でおとなしくなった私に、みどり先生は「大丈夫。これからいっしょにやっていきましょう」とさらに透明感のある笑顔でいってくれた。

その一言で、絶望の底から少し上を見上げることができた私は、何か弾いてもらえませんかとお願いした。
目の前でクラシックの曲を聴く機会は、同級生の女の子が弾く、「エリーゼのために」とか「乙女の祈り」しかなかった。

ちょうど、練習している曲があるの。ラヴェルのソナチネ。と先生はピアノに向かった。
ソナチネ? クレメンティ? ソナタより格下の曲? と、一瞬思ったが、鳴り始めた音の流れは疾走するような曲想のものだった。



ピアノの鍵盤の上から下まで使った、流れるようなメロディー。聞いたこともない音の使い方。さらに一つ一つの音が細かく刻まれ揺らいでいる。
目の前で体をくねらせて(その時はそう見えた)、少しうつむき加減になった瞬間、先生の左手の指は鍵盤の一番左の音、つまり、最低音のラを力強く鳴らしたのだ。ボンと響いた直後、スウッと宙を舞い、すばやく体の前にもっていく。未だにその光景と音は脳裏に焼き付いている。
外は大雨で、日が落ちて暗かった中での出来事だと印象に残っているが、曲のイメージがそう感じさせていたのかもしれない。



初めての経験。ナタリー・ドロンの「個人教授」をはるかに凌駕するものだった。
最初に目に入ったみどり先生は淡い気持ちを起こさせる人だったが、そんなものはもうぶっ飛んでしまった。
本物の女神だった。この先生なら間違いない。どんなきついことを言われてもついていこうと心をきめた。
師匠に恋心を抱いてはいけない。その抑圧された心は、このラヴェルの曲に転化され、一瞬で昇華された。
ラヴェルに恋してしまった。もちろん彼の作った曲だけど。

家路につく私は思わず口ずさんでいた。
それは今聞いたラヴェルのソナチネではなく、森昌子の「せんせい」だった。
♪あーわい初恋消えた日は、あーめがしとしと降っていた~
あっ、大雨の記憶はこれだったのか。



2017年12月13日水曜日

「ヘイ・ジュード」VS「レット・イット・ビー」

中3になり、「別れのサンバ」は、胸中にわずかに残っていた燻ぶった炭の燃えかすのような音楽心に火をつけはしたが、燃え上がるまでには至らなかった。
低音部が半音ずつ下がっていく魅惑的な辺見マリの「経験」とか、ビリーバンバンの「白いブランコ」などにコードをつけていくのが楽しみで、演奏というより、理論を追求している音楽学者みたいだった。



ある日の放課後。音楽室のピアノで探求を続けていると、たくさんの男女の取り巻きに囲まれてNがやってきた。ギターのNとは違う。転校してきたばかりの医者の息子のNだ。ピアノを弾くという噂だ。兄もピアノをやり、ショパンがアイドルだと聞いた。私はショパンなど聞いたことがなかった。

Nは、私の姿を見ると言った。「どけ!ヘタクソ!」
取り巻きの視線も冷たいものだった。普段はいい友達なのに。
その思い空気に弾き飛ばされたかのように椅子から立ち上がった。
「お前なんかがピアノは弾くな」というやいなや、サッと座り、当時はやっていたビートルズの曲を弾き始めた。
「ヘイ・ジュード」だった。
確かにカッコイイ。弾く格好も顔も、何枚も上手だった。
取り巻きたちは一緒に「ヘイ・ジュード」の歌詞を口ずさんだ。
それもショックだった。英語で歌っている!
盛り上がり、曲が終わると、Nは止めをさした。
耳慣れたイントロ。
「このテープは自動的に消滅する」のセリフで中学生の心をわしづかみにした「スパイ大作戦のテーマ」だった。
私は完全に打ちのめされ、その場から立ち去るしかなかった。



普通なら、家に帰って落ち込み、ピアノから目をそらし、鍵盤に触れる気さえできなかったかもしれない。
しかし、私にはあのコードの法則を見つけた時の喜びがしっかりと全身に刻み込まれていた。
よし、やるぞ。
あいつが「ヘイ・ジュード」なら、「レット・イット・ビー」で投げ飛ばしてやる。「ジュード」は柔道と思っていた。



ビートルズの曲で持っていた唯一のEP。
レコードが白くなるまで聞いた。
左手が親指、小指とオクターブで動くイントロ。
最初はなかなかできなかったが、譜面に書き取り、練習した。
習ったわけではないから、たくさんあった方がいいと思い、五線紙の上に歌詞と勘違いするほどコードもつけた。
時に挫けそうになり、諦めかけもしたが、「どけ!ヘタクソ!」を思い返し、臥薪嘗胆。
何日も何週間も練習した。
捲土重来してやると、ピアノに向かう姿は鬼気迫るものだった。かもしれない。


音楽室のピアノはNのものだった。
そこからは「スパイ大作戦」が聞こえていた。
私は、腹を決めて佐々木小次郎に向かう、宮本武蔵みたいに勝負に出た。
「どけ」と叫ぶと、Nの手が止まった。
「何しに来た。ヘタクソ。やれるものなら弾いてみろ」と小次郎はニヒルな笑いを浮かべた。
私はひるまなかった。堅忍不抜。ここまで耐えて、日々精進を重ねてきたのだから。
左手の親指でドを鳴らし、次に小指で1オクターブ下のドを力強く抑えた。
もう、ポール・マッカートニーが乗り移ったように、夢中で弾きまくった。
いや、レコード以上に和音がついている編曲版だ。
当時の自分の持てる力を出し切った。
Nは震えていた。ヘタクソが蘇ったフェニックスのように見えたのだろうか。
うなだれて教室の外に出ようとしていく後ろ姿に、「お前なんか、ピアノは弾くな」と言ってやった。
「あゝ忠臣蔵」で仇討ちをはたした大石内蔵助役の山村聡の気分だった。

後から聞いたが、Nの弾ける曲は「ヘイ・ジュード」と「スパイ大作戦のテーマ」の2曲だけ。
なんとかの一つ覚えで、そればかり繰り返す。
取り巻きもすぐに飽きて、あっというまに相手しなくなり、いつも音楽室で一人で弾いていたそうだ。
家ではバリバリのショパンを弾く兄がいたから。
なんだか、可哀そうなことをした。

今では、ハートに火をつけて、小さな火種から燃やし続けられるものにしてくれたNに感謝している。
ごめんネ。でも、おたがい様。

2017年12月10日日曜日

「別れのサンバ」でユリーカ

中2の時、長い沈黙から再び音楽への情熱が目覚めた。今まで途切れていない。

同じクラスのNの部屋に遊びに行くと、ドラムをしている兄貴とバンドを組んでいる。といって、エレキギターで曲を弾き始めた。
テケテケテケテケ~~のイントロで有名なベンチャーズの「パイプライン」。実にかっこよかった。



小学校4年で初めてベンチャーズを聞いて以来、エレキといえばベンチャーズだった。ビートルズは話題になっていたが、聞いたことはなかった。いや、聞こうともしなかった。あのヘンテコリンなヘアースタイルが当時の小学生にはうけなかった。
中3の時「レット・イット・ビー」のEPを何十回も聞くまでは、ビートルズは食わず嫌いだった。

軽くギターのネックを握って、フレットを滑らすNに、こいつは天才だ。と畏敬の念で仰ぎ見た。

その頃、長谷川きよしが「別れのサンバ」でデビューした。盲目のサングラスの歌手が巧みな指の動きでフラメンコ調の伴奏を奏で、「さびしさを あーあー」と「さびしかったのーね」の部分が終わると、爪でボディーをかっこよく叩く。これが流行った。



ベンチャーズはとても弾けそうになかった。別れのサンバはもっと難しそうだったが、ギターを持って爪でボディーを打ち鳴らしたい。
と母にねだったが、入学祝のラジカセがここで大きな障害として立ちはだかった。「あんな高いもの買ってあげたのだから、ギターもなんてとんでもない」と一瞬にして交渉は決裂というか玉砕した。

どうしてもあの「別れのサンバ」を弾いてみたい。と諦められなかった私の目に、居間にあるカワイのアップライトピアノが飛び込んできた。
ピアノを習う妹のために母が会社の寮母として苦労して買い求めたものだ。私より耳のよかった妹はもうそのころにはほとんど鍵盤に触ることもなかった。
花瓶が載った物置と化したピアノの蓋をそっとあけ、「別れのサンバ」のメロディーを一音一音思い出しながら弾いてみた。やっぱり、カッコイイ。
でも、何かものたりない。伴奏、ピアノで言えば左手がわからないのだ。

幸いに音符は読めたので楽器店に行くと、あった。ブルーの表紙のど真ん中に長谷川きよしの写真が大きく印刷されている「別れのサンバ」。ペラペラだった。
ピース譜なんて知らなかった。それしかなかったので中を見てみると、メロディー譜の下にあるはずの左手の低音部分には五線譜より一本多い6本線に、オタマジャクシの玉の代わりに数字が書いてあった。
なんだこれは。初めて見る。(ギターのタブ譜だった)
おまけにメロディー譜の上にはアルファベットの謎の記号。コードの存在なんて全く知らなかった。

どうしようかと迷ったが、「別れのサンバ」の官能的な魅力に私は負けた。
この謎の楽譜を買い求めた。

その日からピアノに向かい、険難の峰に登るがごとく、この楽譜への挑戦が開始された。
カポは3フレットにと書かれ、最初にAmとある。
楽譜はイ短調。テレビから録音したテープはハ短調だった。楽譜と調が違う。
ショックの上にナゾの記号の羅列。
テープの長谷川きよしは、ギターのみの伴奏、しかも巧みなスリーフィンガー奏法だったから、一層困難さが増した。
学校から帰って、テープを聞き、楽譜を凝視しピアノにむかい続けた。来る日も来る日も。

ついにその謎が一瞬にして氷解する時が、突然やってきた。人間、何事にも立ち向かっていけばいつかは報われる。プロジェクトXのように。

ある授業中のことだった。先生の話など耳にはいらず、Am B7 E7 Am Ammaj7 Am7から始まる「別れのサンバ」の楽譜に書かれたすべてのアルファベット記号、それらをABC順に並べ替えたり、mとmaj7、sus4 と大文字のアルファベット以外を真っ黒になるほどびっしりと書きこんだノートを見つめていたら、決まった法則があることに気づいたのだった。
あっ、Aがラの音、Bがシ、Cはド。mは短調、7は7度の意味であることを。

打ち震える感動が抑えきれなくなって、おもわず立ち上がった私は、「わかった!」と静かな教室に響き渡るような声で叫んだ。
クラスのみんなはビックリしたが、先生は冷静な声でいった。「では、この答えは」
当然だが、答えられなかった。
「ユリーカ(Eureka)!」と叫んだアルキメデスも同じ感動を味わったに違いない。



今みたいにピアノ用のコードブックがあれば苦労しなかっただろうが、おかげでその時から、メロディー譜さえあればコードづけし、歌謡曲でも何でも弾けるようになった。
しかし、これがまた私の人生を狂わせていくはじまりともなったのだ。続く~ぅ。

2017年12月9日土曜日

偶然の電話

"「死に至る病」と沈黙"を書いているとき、携帯が鳴った。
大阪のUからだった。

Uとは学生時代は一緒に暮らしたこともあった。映画などに出掛けると、必ず途中でどこかに消えてしまう。
だれからも束縛されたくないんだ、それができる強さが羨ましかった。

Uはたまに思い出したように、「元気してるか」とかけてきた。
元々、筆ならぬ、電話不精の私は普段からあまりかけない。
まして、電話は束縛しているみたいなので、こちらからかけることはほとんどなかった。

阪神・淡路大震災の時は、「オレのところは大丈夫やで」と夜の10時過ぎに会社に電話があった。
「何があった?」と聞くと「なんや、知らへんのか」とすぐにテレビをつけるとその凄まじさに愕然とした。
仕事に没頭していて、朝から地震の報道で溢れ返っていることを全く知らなかった。

Uは足場機材の会社の取締役で、全国を飛び回っていたが、早期退職してタイ料理の店を開いていた。
5年前にその店で会ったのが最後だ。
駅近くの小さな店だった。家庭的な雰囲気に、客とも楽しそうに会話を交わし合うオーナー兼ウエイターの姿がはまっていた。
やりたいことを貫いて昔と変わっていない。なかなかできることではない。
しばらく会わないうちに距離が開き過ぎたことを感じた。


今年の7月に久しぶりにUから連絡があった。
大腸がんが見つかり、それもステージⅣ。
医師からは余命3ケ月と告げられたが、治療がうまくいってなんとか生き延びた。
という話だった。
店はどうなったかと聞くと、人に譲ったという。


今日の電話は、「死」について綴っていた時、Uはどうなっているのかなと、ふと思った時だったので本当に驚いた。

真っ先にガンの経過を尋ねると、つい最近、検査したら転移もなく、すべて消えているとのこと。ああ、良かった。
要件は、もう一人学生時代同じ屋根の下にいたM君が、私にも会いたいとの内容だった。8人子どもがいるという。
「そんなの簡単、簡単」が口癖の楽天家で、いつもニコニコしていたM君だが、前の奥さんは5人目の子どもを産んだ時、その命と引き換えに亡くなった。再婚したという。
みんな会わぬ間に、それぞれ波乱の人生を歩んでいる。

Uに会ってから後、私も、今までないような経験をいくつもした。
そのおかげで見えてなかったものが少し見えてきた。
私より先のものを見ていたUと長時間、久しぶりに話がはずんだ。
学生時代とは別の意味で、距離が縮まった気がする。
今度は、こちらから連絡をとってみよう。

「死に至る病」と沈黙

「死に至る病」といっても、ガンのことではない。
キェルケゴールの本の名前だ。



人生で、何度か死に接すると思うが、強烈に心に残るものがある。

幼い頃、母に連れられ葬式に行った。
母は言った。井戸に母子で飛び込んだといった。
多分、聞き違いだろう。川か海だったのだろうが、井戸を見ると今でも何故か恐怖心が湧く。
この家は、夫が交通事故で死んで、その妻と子どもが途方に暮れて一家心中したのだ。
母にずっと後で聞くと、自殺したことさえ覚えていないという。

飯塚では父が勤める炭鉱社宅の共同風呂の帰りに、列車事故があった。
轢かれた人はバラバラになった。
切れた片足を何人もの人がそのまま運んでいた。
ももの切り口部分が私にはとてつもなく大きく見えて車輪のように見えた。

この頃、祖母が乳がんで亡くなった。葬式で座っている写真が残っているが記憶は全然ない。

小学校入学と同時に北九州に引っ越した私には友達がいなかった。
唯一、三村君という友達ができて、いつも遊びに行っていた。
ある日のこと、もう、来ないでと言われた。ショックだった。
別に、他のクラスで気の合う友達ができたのだ。
大好きな三村君よりその友達を恨んだ。子供心に「死ねばいい」と。
それからしばらくして、現実になった。
「悲しいことですが、昨日、○○君がダンプに曳かれて亡くなりました」と校長先生が朝の朝礼で告げた。脳が出るほど悲惨だったらしい。
その時、絶対に死ねばいいなどと思ってはならないと心に誓った。

小学校4年の時、近くの土手でみんなと遊んでいたら、川に長い黒髪の大きな人形が流れてきた。
なんだろうと物干し竿が捨ててあったので、それでつついて遊んでいた。
しばらくすると、警察がたくさんきて、人形を引き上げた。
それは本物の人間だった。酒に酔って水死したという。
顔はパンパンに膨らんで、落ちたときにできた傷はパックリと開き、警察がビニール手袋で、皮膚にさわるとアッという間にピリピリと裂けた。
小学生だったからか事情聴取はなかった。後で痩せた若い工員だったと聞いた。

中学1年の夏休みが開けるとすぐ、先生から「悲しいお報せがあります。後藤さんが腎盂炎で亡くなりました」とホームルームで報告した。「わしゃあ、もうダメじゃ」が最後の言葉だった。
ショックだった。ショートカットの元気な女の子で、夏休み最後の大掃除の時、一緒にホウキをもってふざけて遊んでいたからだ。
葬儀にはクラス全員で参加した。遺影を見て、人は簡単に死ぬでしまうのだと思った。
これまでも尋常ではない経験をしたのに、身近な同級生の死が一番「死」ということを考えさせた。
とはいえ、そこは子ども。また、普通の生活に戻った。

再び扉を開いたのは、高校の図書館でたまたま「死に至る病」という本を見つけた時だ。
「死」というキーワードに目がひかれた。

自分が考えていた内容とはまったく違ったものだった。
「死に至る病」とは絶望のことである、と書いてあった。

倫理の授業でロックやモンテスキューなどを学んでいたが、啓蒙って難しい字で、何の意味だろうほどの認識しかなかったが、このキェルケゴールが出てきてから、がぜん興味が加速し、図書館で手当たり次第にその手の本を読みまくった。
カント、ヘーゲル、ラッセル、難解の極みヴィトゲンシュタインまで読んだ。さすがに理解できていなかっただろうが。ハイデッカーは読んだ記憶はない。図書館になかったのかな。
当時は、今みたいなイラスト付きのよくわかる哲学なんてなかった。

黒板に黙々と字を書くか、弱々しい声で副読本の説明しかしなかった倫理のおじいちゃん先生はだれからも相手にされなかった。
私だけが哲学書を読んでわからないことを授業が終わるたびに聞いた。本当にうれしそうだった。授業の声も大きくなった。
普段、バカな私がこんな質問を繰り返したからだろう。
みんな、私より理解しているのだろうと勝手に解釈したおじいちゃん先生は、期末テストでとんでもないことをした。
平均点が20点以下という前代未聞の問題だった。
欠点の40点を超えたのは2人。40点ぎりぎりの秀才と90点の私だけだった。
100点が取れなかったのは漢字が書けなかったのだろう。
学校始まって以来の出来事に大騒ぎになった。
職員室に呼び出されたが、まわりが全員ひどい点数だったのでカンニングの疑いは晴れた。
みんなはこの出来事には、何故か口を閉ざした。
ゲマインシャフトの存在を感じた。
いけないことをしたのだと、それ以来、先生のところに行くのをやめた。
おじいちゃん先生の声はますます小さくなった。
それ以来、まわりに哲学を語ることはなかった。
「語りえぬものには、沈黙しなければならない」『論理哲学論考』(ヴィトゲンシュタイン)



イメージと偏見

会合の控室で地元の小学校の校長とある話題になった。
小学校の修学旅行はどこに行ったかとなり、広島で京都に行ったと言うと、校長は私も大学に行くまでは広島市内でしたという。
私は広島と言っても岡山県境の福山だったので、広島は怖かったんじゃないですかと質問した。
「そんなことはありません」と、校長は応えた。

広島はヤクザの抗争で知られていた時期があった。
福山にいた頃、テレビで「ある勇気の記録」という番組があり、最初に「暴力と斗い 暴力に勝った広島市民にささげる」のテロップが出る、暴力団に立ち向かう新聞記者たちの物語だった。小学生だった私は、怖いと思いながらも、最後まで見続けた。白黒の画面がさらに怖さを増していた。
そんな記憶があったから聞いたのだ。
校長は、全然、そんなことはなかったが、自宅のすぐ近所で開かれた日教組の全国大会に、黒塗りの右翼の広宣車が何台も連なってきたことは覚えているといった。

その会合が終えて、家に帰るとテレビのバラエティー番組で東ティモールのことが放映されていた。
東ティモールでも豆腐があり、同じくトーフという。食べると日本のものとあまり違わないとか、テンプラもあるけど揚げるものはビスケットだったりとか、釣りの餌にするゴカイをご飯にかけて食べるなど見ているだけで気分が悪くなるような内容もあったが、それらを食べる日本人タレントと一緒に東ティモールの人はニコニコしながら、共に楽しんでいる様子だった。
世界で一番最後にできた国なので、世界の中でも東ティモールは治安の悪い国と聞いていたが、テレビでは全く感じられない。

今の所に住む前は、飯塚市だった。いわゆる筑豊。今でも怖いところというイメージがあるが、実際に住んでいて、普通の生活の中で怖いと感じたことは一度もなかった。

校長のいた広島もそうだろう。どこどこは怖いとか、貧しいとか、金持ちが多いというイメージがあると、それが1000分の1、いや、10000分の1でも全体を表しているような印象になる。どうしてだろう。
北朝鮮やアフガニスタンも一緒だろうかと、テレビを見ながらふと思った。


40年ほど前に仕事で隣の田川に行った。急用で連絡をとらなければいけない事態が起こった。今みたいに携帯がないので、公衆電話を探したが、田んぼばかりで、そんなものはない。
あたりを見回すと、大きな門構えのお屋敷があった。
あそこならと、走っていくと、門の真ん中にはとてつもなく大きな紋がついていた。
くぐって玄関で「電話を貸して下さ~い」と叫ぶと、中から、何故だか怖ーい角刈りが出てきて、いきなり、「何しにきた」とどなられた。
びっくりしていると、奥の方から「いいから、貸してあげなさい」と声がすると、角刈りの態度が一変。「こちらにどうぞ」とやさしくなり、部屋に通された。
女の人がいて、「電話使ってもいいわよ。よくこんなところに電話を借りに来たね」と優しい笑顔で言ってくれた。角刈りがお茶まで出してくれた。
電話で要件を済まし、丁寧に礼を言った。
帰ってから、会社で「いい人がいて、お茶まで出してくれた」と話すと「よく、あんな地元の人でも近づかない暴力団の組長の家に入っていったもんだ」とあきれ顔をされた。
偏見も知識もないから、行けたんだと思う。今なら、絶対にできない。
そんなことまで、思い出した。

2017年12月8日金曜日

作品番号1番 ねこが死んじゃった

小学校5年の時、広島の福山に転校した。
父が探してきた2軒続きの平屋建ての田中アパートは新築だったが、なぜか、風呂は五右衛門風呂だった。
玄関横の狭い2畳ほどの納戸に、福岡から持ってきた電子オルガンが置いてあった。

このオルガン、小学校に上がる前、どうしてもオルガンを習いたくて、ねだってねだって、買ってもらった。んだろうと思う。半世紀以上も前のことだ。記憶がない。
飯塚の「はたや楽器」にヤマハの音楽教室があり、通っていたのだ。
多分、母とバスで行っていたのだろうが、タクシーに乗っていった思い出しかない。

小学校に入る時、北九州の折尾に転居した。
ヤマハの音楽教室は、妹の通う女子大の付属幼稚園の教室で行われた。
その頃は、オルガンより、マグネットの音符がついた五線紙盤で陣取り遊びや、父からもらった大きなU字磁石でその黒い音符を反極で飛ばしたりして遊ぶことだけに夢中だった。
オルガンに触れるのは、教室に行った時だけ。
辞めたかったが、自分から懇願したのだから、辞めるわけもいかず、一番ヘタクソだった。
和音の聞き取りも、たまについてきた妹が後ろで真っ先に手を挙げる。「ハイ、2の和音、5の和音」と。
兄の私はボーっとしてひとりだけ窓の外を見ていると、帰りに母から叱られた。

1年生のクリスマス近くに、レッスンの第一期が終わり、卒業演奏があった。幼稚園とは別のところだったと思う。
アンサンブル演奏で、みんなオルガンだったが、私だけ、先生から「大太鼓」と言われた。
他のみんなは次の教程にいったが、これでおしまいと思った私は、2年間のレッスンで一番真剣にリズムを叩いた。

それ以来、ずっとオルガンは触らなかった。
が、突然、この納戸のオルガンで作曲を始めたのだ。

きっかけは、拾ってきた猫だった。
道端で小さな黒猫がか弱い声で鳴いていた。雨に濡れて、かわいそうだからと家に持って帰った。
母からアパートでは動物を飼ってはいけないから捨ててきなさいと言われたが、衰弱していたので、元気になるまで隠れて飼ってもいいと許可もらった。
名前をつけた。「クロ」。
クロはかわいかった。いつまでも飼っておきたかったから、元気になりませんようにと祈ったが、思いに反して、すごいいたずらっ子になって、部屋の障子紙を爪で引っ掻いた。
母から、「もう、こんなに元気になったのだから約束通り捨ててきなさい」と言われ、泣く泣く妹と遠くまで歩いてクロを捨てた。
その晩は悲しかった。でも、次の日、クロは家に帰ってきた。嬉しくてたまらなかったが、やはり、許してはくれなかった。
父が車でクロを捨てに行った。さかずにクロは戻ってこなかった。
その悲しみが、ずっと眠っていた私の音楽魂に火をつけたのだろう。
あっという間に、作詞、作曲、同時進行で、
記念すべき作品番号第1番「ねこが死んじゃった」が完成した。
ついでに、第2番「フグフグなあ~に」という曲もできた。



「紳士です」の部分だけ、音が跳ねてない。よくできている。
高校時代に作った、ピアノソナタやコンチェルト、プロコフィエフもどきの現代曲。吉田兼好に感化された「徒然草による組曲」よりもはるかにいい、と思っている。


「ねこが死んじゃった」の和音はずっとトニックだが、最後はドミナントで終わる。



それも、レの音で余韻を残しながら終わる。
こんな終わり方は、多分、ヤマハ教室の曲に「スペインの踊り」というのがあって、ドレーミ、ファソーオミーとはじまってから、最後の音がサブドミナントのファで終わる曲が好きだったからか。
この曲と「小鳥がねぇ~」から始まる「ヤマハおんがくきょうしつの歌」しかヤマハでの記憶はない。

「兄ちゃん。すごくいい」と妹が手を叩いてくれた。
最後のレの音は私の悲しみを表していた。弾くたびに伸びていった。
オルガンだから鍵盤を押す限り音は鳴り続ける。
そのうち、妹は最後のレの音に拒否反応を示し、逃げ出した。
唯一の理解者を失った私の音楽は再び長い眠りについた。

我が家のオーディオ④ ソナス・ファーベル

ジャズを聴いている間は、オーディオはあまり、気にしなかった。
コンパクトCDプレイヤー、真珠の入ったアコヤ貝のような持ち運べるものに、耳当てのスポンジ素材がすぐにポロポロになるゼンハイザーのヘッドホンで満足していた。

クラシックに凝り始めると、弦の音に興味が湧いてきた。
ピアノは音が違っても、自分で弾くので頭の中で想像できるが、弦の音を家で聞いてみたいという欲望が湧き出てきた。

昨年亡くなった宇野功芳と正反対で、双璧をなす音楽評論の異端児、許光俊の「オレのクラシック」を読んだ。

要約すると・・・。
CD評論で、オーディオについて語るのはタブーだ。オーディオ装置によって、CDの印象はいくらでも変わる。
編集者のダリという北欧のスピーカーと、オレのイタリアのソナス・ファーベルのコンチェルティーノで聴き比べをした。
スピーカーが違うと、これほどまでに変わるのか。これではもはやCD評論なんてバカバカしいと考えてしまうほどだった。
ソナスのスピーカーを使っている理由は、作っている人々が生の音楽をよく知っている気がするからだ。知っている限り、ソナスは生の印象に相当近い。
と書いてあった。

これにビビビッときた。ソナス・ファーベル!名前もカッコイイ!

ホームページを見ると、イタリアの雰囲気満載。弦楽器のニスの匂いまで感じさせるようなデザイン。
完全にノックアウトされた。

福岡のベスト電器の高級オーディオルームに初めて入った。
こんな世界があるのか。
客は誰もいない。ドキドキしながら、店員に声をかけ、持参したヴァントのブルックナーのSACDをかけてもらった。コンパクトCDプレイヤーやパソコンで聞く音楽とは完全に別世界。



立体的な空間が出現し、あたかもオーケストラが目の前にいるようだ。
楽器の音も別々にきちんと聞こえる。

その中にあった。「ソナス・ファーベル」の「クレモナ」。


※部屋が汚いので全景はお見せできません。

思ったよりも小さかった。
まわりにはJBLのスピーカーをはじめ、でかいものが所狭しと陳列されていた。

これで弦の音が聞きたい。というと、視聴用の長岡京室内アンサンブルのデビューというSACDが最適ですよと、鳴らしてもらった。
弦の艶やかな音はもちろん、弓の松脂でこすれる音まで聞こえた。衝撃的だった。
アンプはDENONの一番高いプリメインアンプだった。



許光俊の言うとおりだ。この人はすごいと感心したが、なにせ、異端児。
この章の初めにはCD評論なんてあてにならないと書いてある。

元来の探求心が首をもたげてきた。日航ホテルで行われた高級オーディオフェアに行ってみた。

ベスト電器よりさらに緊張した。来ているオタクたちが「S/N比は?インピーダンスは?」などとスピーカーの周りに集まって会話を交わしている。なんという異次元空間。頭がクラクラした。

時間が来て、柳沢功力さんの講演があった。スイング・ジャーナルや分厚いオーディオ高級雑誌「STEREO」でも有名なオーディオ評論家だ。色々な機種で、様々なCDをかけながら説明してくれる。

終わって、オタクたちが「さすが、柳沢先生だ」と話していた。オーディオのことは詳しくないので不安だったので、「会いに行きたいので一緒に行きませんか」と声をかけると「とんでもない。恐れ多くて」と断られた。
しかたないので、一人で柳沢さんに会いに行った。誰も近づかず、私一人だった。

柳沢さんとは、オーディオの性能とか特性などは皆目わからないので、こんな風な曲にはどんな機器がいいのかと、音楽の話ばかりしたら、わざわざそこにあった装置でエド・デ・ワールト(Edo de Waart)指揮のラフマニノフをかけて、初心者の私に、やさしく丁寧に応えてくれた。

話し終えると、オタクたちがどこからともなく寄ってきた。
「すごいですねぇ。柳沢先生と対で話されるなんて!」

ほかにも、ホーン型の中小企業の工場みたいなスピーカーが置いてある店にも行った。
ピアノのCDをかけてもらった。店の人に「どうです。すごくいい音でしょう。」にいわれたが、生の音とは程遠いものだった。
柳沢さんがオーディオマニアには、生の音を追求する人と、オーディオの音を追求する人がいると言われた意味がよく分かった。

スピーカーは「クレモナ」にしようと決めていた。
アンプにはプリとパワーがある。
高級オーディオフェアで柳沢さんが説明したゴールドムントのプリアンプとパワーアンプ。温かい音だった。ベスト電器できいたDENONのSA1よりさらに力強く、より艶があり、解像度も優れていた。
だが、プリとパワー、2つともデカい。置き場所も価格的にもあきらめようとした時、ゴールドムントが初めてのプリメインアンプを発売した。
デザインもクールで都会的だった。どこに行っても、プリメインは展示していなかった。
もう、頭の中ではゴールドムントが音を奏でていた。どうしてもほしかった。



覚悟を決めて、クレモナとゴールドムントのプリメインアンプとCDプレイヤーを購入した。
設置が終わり、長岡京室内アンサンブルのCDをかけてみた。
松脂の音は聞こえたが、クールで都会的な「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だった。
SA1にしとけばよかった。



これでオーディオ遍歴はおしまい。

2017年12月7日木曜日

書くこと② 白黒のカザルス

先日のランチタイムコンサートの主役はチェロ。
チェロと言えばパブロ・カザルス。

カザルスを知ったのは高校の時。
ハゲたおじいさんが両手を拡げながら「ピース(平和)、ピース」と言い終えて、「鳥の歌」の演奏するのをテレビで見た。感動した。

立派な天井の高い部屋で椅子に座って弾いていた。1961年のホワイトハウス・コンサートとばかり思っていた。私の記憶は白黒。

調べると、1971年10月、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピースと鳴くのです」と語り、『鳥の歌』をチェロ演奏したとある。すでにテレビはカラー放送だった。

自分の部屋の押入れ下段の古い白黒テレビ。ホワイトハウス・コンサートCDの白黒写真。



これが勘違いの原因なのだろう。
文章を書くと整理されて、記憶が蘇ってくる。人間の記憶なんて結構いい加減だ。

人は自分の体験したことはすべて正確に記憶しているという。思い出さないだけだと。

死ぬ直前、自分の経験したことを走馬灯のように全部思い返すというキューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本が流行った。

並外れた記憶力で、過去の一字一句さえ正確に再現できた男を研究したルリヤの『偉大な記憶力の物語』。



特別な能力が備わっているわけではなく、むしろ、男が並外れた記憶力を持っていたのはある能力が欠落しているからだと書いている。
ある能力とは記憶の編集力。
会話は正確に覚えているが、ふつうは会うほどに深まる相手の人格への理解ができない。記憶の編集ができなかったのだ。
記憶を「編集して何か新しい意味を見出すこと」と「正確に覚えていること」との間には、一方を立てれば他方がうまくいかなくなる関係がある。

人間、もともと自分の都合で記憶を違えたり、再構築するようにできているのだ。
そうしなければ、生きていくには大変だからだろう。
漱石いわく「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」

この記憶力男、忘れることができずに苦しんだとある。

記憶の再構築が創造性を産むともいう。
創造の女神は、やさしい微笑みで私のいいかげんさを許してくれる。



◎カデンツァ♪
カザルスのバッハの無伴奏組曲は本当にしびれる。
SP復刻版のパチパチと針音が混じった貧弱な音だが、これを超える演奏はいまだにない。
バッハ本人はどう思って作ったのかはわからないが、1本のチェロから、厳しい自然の中で孤高に聳え立つチョモランマのように偉大なる精神性を感じさせる曲までに昇華させたのは、カザルスだ。



フルニエ、ロストロポーヴィチ、ビルスマ、マイスキーも、もうひとつピンとこない。
ロストロポーヴィチはレーザーディスク盤も買った。もちろんDVDも。
マリオ・ブルネロはサントリー・ホールに聞きに行ったが、何か違う。
ヨー・ヨー・マは論外。

2017年12月6日水曜日

アクロス・ランチタイムコンサートで「ピアノ三重奏曲」

アクロス・ランチタイムコンサートに行った。
Sさんの奥さんがアクロス福岡の『若林顕&鈴木理恵子デュオコンサート』のチラシを見せてくれた。
「とても、よかった。1000円で1階が満席だった」と聞いて、そんな機会があればと、アクロスのHPにアクセス。12月6日、「アクロス・ランチタイムコンサート vol.62 フランツ・バルトロメイ リサイタル with 篠崎史紀」とあるではないか。



この日は、前からKさんが毎年行っている油絵の個展を妻と見に行く予定を立てていたので、絶好の日取りだった。すぐにネットでチケット購入手続きをした。ら、なんと、1,2階はもう売り切れ、3階のみだった。

ちょっと早めにアクロスに着いたが、もう、かなりの人が来ていた。



プログラムもきちんとしたものだった。
チェロのフランツ・バルトロメイは元ウィーン・フィルの首席奏者。篠崎さんは言わずと知れたN響のコンマス。ピアノは田中美江という人だった。



最初はチェロの独奏曲「マレのスペインのフォリア」。バルトロメイさんが編曲したものらしい。
聞いたこともない曲名だったが、奏で始めると、どこかで聞いた曲だ。
ラフマニノフの「コレルリの主題による変奏曲」ではないか。
哀愁を帯びたメロディー、派手さはないが、人生を訥々と語るようなチェロの音色に酔いしれた。
その響きは、左隣の妻も、右隣りの見知らぬ客をも眠りに誘うほど心地よいものだった。

次の曲は、「シューベルトのピアノ三重奏曲第1番」。
五重奏曲「ます」は有名だが、ピアノ三重奏というのは他の作曲家でもほとんど接する機会がない。
三重奏団といえば、カザルス、コルトー、ジャック・ティボーという夢のようなピアノ・トリオが有名だがCDは持っていない(Youtubeにあった)。

バイオリンとチェロのユニゾンで始まり、途中からバイオリンが上から一気に軽快に降りてくると、下からチェロが低いところから同じ調子が駆け上ってくる。
貧しかったが友達は多かったシューベルト。気のおけない、何も遠慮することのない友と楽しい会話をしているような明るい旋律。そこにシューベルトらしい散和音やユニゾンで上がったり下がったりするピアノが絡むと、たくさんの友が集まってあり余るのエネルギーを発散しながら、青春を謳歌している風景が浮ぶ。(カザルス・トリオの演奏)
楽しいひとときを終え、温かい日差しの中で、なごやかに会話をしているようなきれいな旋律の第2楽章。(カザルス・トリオの演奏)
第3楽章。ピアノのスタッカートの軽快な音に、バイオリンもチェロも誘われて、再び楽しい宴が始まる。ピアノの和音が効果的だ。(カザルス・トリオの演奏)
最後の第4楽章は、メロディーがさらに饒舌になり、みんな揃って楽しくてたまらないといって終わる。(カザルス・トリオの演奏)

コンサートで感じたことを書いた。
地味で玄人ごのみのシューベルトと思っていたが、こんな曲もあったのだと、改めて、恐るべし、シューベルト。
演奏も、バランスもよく、とても満足した。これが1000円とは。恐るべし、アクロス。

アンコールはモーツァルトのピアノ三重奏曲。あとで出口に第4番より第1楽章と書かれていた。
先ほどのシューベルトもよかったが、このモーツァルトの主旋律が耳から離れない。
シューベルト様。すいません。



◎カデンツァ♪
三重奏曲は、曲の頭にたいてい「ピアノ」とついている。
カザルス・トリオで有名なように、チェロが大きな役割を担う。
「○○チェロ・トリオがチェロ三重奏曲~~を演奏します」と言えばいいのに、○○ピアノ・トリオという。なぜだろう。


美人ピアニスト

CDはいよいよ売れなくなったので、ただきれいなだけでこんな演奏でいいのというピアニストが増えた。ここでは、クラシック界で天から二物を与えられたピアニストを取り上げたい。


高3の時、音楽の先生から「アンネローゼ・シュミットの演奏会がある。学生席だが行くならあげるよ」と言われた。当時、話題の金髪の美人ピアニストだった。
演奏よりもその姿を見たかったが、レコードとカセットテープを買って電車賃もなかったので諦めた。



テレビでは中村紘子がよく出ていた。われわれ庶民と違って、別世界の気品があった。
ピアノを弾くときに顔をあげて上目遣いをする時、半開きの唇と大きな眼(まなこ)にとてつもない色気を感じて、友達のKとそのまねっこをしていた。
後に、『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞をとった東大卒の庄司薫と結婚して、ますます高嶺の花と化した。



その後、ジャズばかり聞いていたので、女性ピアニストといえば、プレイもスゴイが見かけはもっとすごいメリー・ルー・ウィリアムス、寄付集めに走るアメリカの上流階級の奥様みたいなマリアン・マクパートランド。ジャケットはおっといわせるのだが、実際は典型的なドイツ人顔のユタ・ピップぐらいで、その頃のジャズ界には美人ピアニストというカテゴリーはなかった。

そんな時、何気なくクラシックの売り場で見たジャケットにはしびれた。マルタ・アルゲリッチ。
こんな黒髪のとびきりの美人がいるのか。



2011年に翻訳された「マルタ・アルゲリッチ―子供と魔法」を読むと、天は二物どころか、本物の天才とはこんなにも能力もあるのかと驚くばかりだった。
別の人がとなりの部屋で練習していた超難曲の「プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番」を熟睡している間に覚えて、その譜読みのミスまで含めて再現したり、朗読された小説を、二週間後に一字一句違えずそらんじる、ジャズピアノでも、あの独特なエロール・ガーナーの左右のタイミングが絶妙にずれる「ビハインド・ザ・ビート」奏法をレコードを聴いて、忠実に再現したり、凡人なら一生かかってもできないことをいとも簡単にクリアしてしまう。
きっとiPS細胞が開きまくっているに違いない。

今は、どこかの魔法使いのおばあさんみたいになっている。凡人は些細なことでも気にするが、本人は見かけなど、全然、気にしていないのだろう。



10年ほど前にクラシックにはまってから、見つけたのがエレーヌ・グリモー。
この人、顔に似合わず、排他的・攻撃的な性格だった。でもオオカミに出会って癒されたという。
シューマンのコンチェルトがよかった。



イリーナ・メジューエワ。可憐なロシア娘がジャケットから漂う。これに騙されてはいけない。
今はやりのルックスだけのからっぽプレイではない。きちんとしたとてもいい演奏をする。
DENON(日本コロムビア)にも録音があるが、若林工房からの盤が多い。
メトネルで有名だが、それ以外もとてもいい。



近頃は、金も暇もないので、しばらくクラシックから遠ざかっていたが、なんかの拍子にYoutubeでカティア・ブニアティシヴィリというピアニストを見た。
今までに見たこともないようなタイプ。ドラマや映画で女優が演じるピアニストが、そのまま本物のピアニストとして世に出てきたみたい。その容姿と大胆な服装。びっくりした。
粗削りな部分も多いが、芯のあるちゃんと何かを感じさせる演奏をする。



姉のグヴァンツァ・ブニアティシヴィリもピアニストで美人(おまけです)。

2017年12月5日火曜日

ビル・エヴァンスとLPコーナー

クラシックから完全にジャズに移り替えたのは、友達のIの家でビル・エヴァンスの「ポートレート・イン・ジャズ」を聞いてしまったからだ。
レコード盤に針を落とすと今まで聞いてきたバップとは全く違う音楽が始まった。
パウエルのドライブ感満載だがタッチは揃っていない演奏に比べて、あか抜けている。泥くささなんて少しもない。
眼鏡をかけ髪を7・3に分けた、まじめな経済学者みたいなジャケットと相まって、左手のブロックコードが絶妙なタイミングで入り、しかも右手のメロディーラインと絡まったり、ユニゾンしたり、なんというカッコよさ。もう、夢中になった。「枯葉」は最高だった。



ほしくてほしくて、Iにどこで買ったというと、今はどこにも売っていないという。
じゃあ、これを売ってくれと嘆願したが、Iも一番お気に入りだからダメと即座に断った。

私があまりにも残念という表情をしたからだろう、Iは輸入盤ならあるかもしれないと、後日、かなり遠くまで電車に乗って、大阪市内の路地にある「LPコーナー」という店に一緒に連れて行ってくれた。

初めて入る輸入盤の店。独特の匂いがした。
気もそぞろにジャズのコーナーに行き、ドキドキしながらLPの上部に手を入れ、一枚一枚ジャケットを引き上げると、目の前に愛しの顔が現れた。
「PORTRAIT IN JAZZ BILL EVANS TRIO」と書かれた写真の上には大きく「STEREO」と印刷されて、友達の家で見たものとは違っていたが、見つけた嬉しさに思わず大き声で「あった! あったよぅ!」と、別のところでレコードを見ていたIに声をかけると、田舎者丸出しの初心者に店内全員の目が注がれることを察知して、Iはさっと外に出てしまった。
そんな冷たい態度も全然気にならなかった。
が、ビニールに包まれたジャケットに張られた価格を見て、あっという間に天国から地獄に落とされた。9000円。もちろん手に入れることは不可能だった。
帰りはIとは無言の時を共有した。
幸いに、何か月たつとビクターから再販された。リバーサイドの版権の問題で一時期発売が中止されていたみたいだ。



北野田駅の長崎屋の小さなレコード屋しか知らない私と違って、Iは他にもマニアックなレコード店を知っていた。
心斎橋にあった「坂根楽器」。
とても貴重な盤がたくさんあるという。

行ってみると、狭苦しい小さな店だった。
兄ちゃんみたいなちょっとむさくるしい店員が、これは珍しいよ。幻の名盤中の名盤だ、高校生のお前たちにはとても買えないよと、レコード盤を手にとって私たちに見せてくれた。
いつも見るLPレコードより一回り小さいものだった。
ヘェーと目を皿のようにしてみていた私たちに、「一曲だけ聞かしてやろうか」というや否や、密封されたビニールをシャーッと破って、プレイヤーに置いた。
音が流れると、迫力あるピアノトリオのプレー。パウエルともエヴァンスとも違う。バップとも違う引きこまれるような何とも言えない演奏だった。
メリー・ルー・ウィリアムス、黒人の女性ピアニストだよ。と教えてくれた。


(メリー・ルーのどの盤かはわからない)

その一曲だけで、満足するほどいい演奏だった。
ビニールの封をきってしまったら中古品になってしまうのかなぁ、気にしないあの人はすごいねと、妙なところに感心しながらIと家路についた。

我が家のオーディオ 番外編 ラジカセとジャズの歴史物語

最初のカセット・テープ・レコーダーは中学の入学祝に親から買ってもらった。
電気屋がナショナルのカセット・レコーダーをラジオがついたものか、つかないもの、どちらがいいですかと2台持ってきた。
ラジカセ(ラジオ付きカセット・レコーダー)の出始めも出始め。ラジオ付きはほとんどなく、値段もかなり高かったが、ラジオも録音できると聞いて、どうしてもとラジカセをねだった。

検索するとニッポンラジカセ大図鑑という本があった。kindle版もあり、プライム会員はタダだった。一番最初に取り上げられていて、様々な記憶が蘇ってきた。
ナショナルの日本で最初のラジオカセットで型番はRQ-231。価格は35800円。よくこんな高いもの買ってくれたなあ。両親に感謝。




使ってみると、その商品、再生も巻き戻しや先送りも同じ四角い操作ツマミ。音を鳴らすたびにガチャンとヘッドをおろすたびにかなりの力を要した。
さらに巻き戻しや先送りの際、ずっと右や左に四角いツマミを親指で固定しなくてはならなかった。巻き戻しスピードもおそかったので、これには辟易した。

そんなラジカセでも持っていることは自慢だったが、最先端のものは後から追いかけてくるものにあっという間に抜かれてしまう。
中学3年になるとみんなラジカセを持っていた。しかも、巻き戻しや先送りはそれぞれボタンがあり、終わると自動的に上がり、カシャンと止まる。
そんなのがほしかったが、壊れるまで使えと買ってくれなかった。

中学生なのでテープを買う金もなく、購入時についていたバッキー白片の演奏テープで、和泉雅子と山内賢の「二人の銀座」と「サン・トワ・マミー」と「エル・チョクロ」ばかり聞いていた。
聞きすぎてテープが切れた。

横のカセットのフタの出し入れレバーが折れてしまったので、新しいの買ってくれと頼むと、まだ、音はなるだろうと拒否された。しかたなく、レバーをはずして、マイナスドライバーを突っ込んで回してはカセットの出し入れをした。

4年間、この手動カセットは生き続けた。原始的なメカの方が長持ちするようだ。
やっと、次のカセット・レコーダーを買ってもらえた。今度はソニーのCF-1600。ずいぶん軽い。操作ボタンもたくさんある。



団地のビラ配りのバイトも始めたので、カセットテープも買えた。
レコードから直接ダビングなどできなかったので、主にFMからエアチェックをしていた。

その頃は、「FM Fan」と「週刊FM」というFM専門雑誌があった。のちに「FMレコパル」というちょっとポップな感じの雑誌も発刊された。
中学の時、近所のおばちゃんからもらったジョージ・セルの「白鳥の湖」とワルターの「運命・未完成」の超定番レコードでクラシックにはまっていたので、どちらかというと「FM Fan」を買うことが多かった。クラシックの逸話の連載は切り抜いていた。長岡鉄男さんのオーディオテストも載っていたような気がする。



タイマーなどなかった。FMの週刊番組表を入念にチェックして、その時間になると、なぜか息を止めてボチッとボタンを押す。番組は2時間あったと思うが、120分テープは片面60分。リピート機能などなかったので、片面終わると取り出し、ひっくり返して、また入れる。その間に曲が途切れてしまう。その時に限っていい旋律だったりするのでストレスが倍増した。

ジャズ番組は「アスペクト・イン・ジャズ」。
聞き漏らさなかった。毎週火曜日の夜中にジェリー・マリガンの「プレリュード・イン・マイナー」で始まる。聞き始めのころは田中穂蓄(ほずみ)という心地よい声のアナウンサーが担当していた。
しばらくして「こんばんは、油井正一です」というしわがれた、ヒキガエルのような声に突然変わった。「なんや、おっちゃんやんか、年寄り臭くてやな感じやな」と思っていた。
が、聞いていくうちに、ただ曲をかけるだけではなく、ジャズの歴史からミュージンャンの裏話、最新情報まで、前とは全然違う深い内容の番組になっていった。
ジャズに誘い込んだIに聞くと、油井正一さんはすごいジャズ評論家の大御所だと教えてくれた。
ヒキガエルが大好きになった。

「アスペクト~」とは別に、日曜の夜、いソノてルヲさんのラジオ番組があった。
Iが、「オレのリクエストが必ずかかるから」今晩聞けと言う。いソノさんが「いい趣味ですね」と言って、本当にレスター・ヤングの「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」がかかった。
「なっ、言った通りだろう。いソノさん、こんなの大好きだから」と平然と言った。
大人だなぁ。こいつにはかなわない。

心斎橋のヤマハの書籍コーナーに行った。ハデな赤いカバーの「ジャズの歴史物語 油井正一」の背表紙が目に入り、そこだけが光ってみえた。油井さん著のジャズのバイブルだ。昭和47(1972)年12月に発刊されたばかりのものだった。450ページもあり、当時1200円。
のちに望まれて2009年に再販されたが、赤いカバーではなかった。3000円になっていた。



この本は生きてきた中で一番読み込んだ。授業中でも教科書の影に隠しながら読みまくった。
ジャズ・ミュージジャンは、初めてレコードを買ったバド・パウエルとセンセーショナルなアルバム「リターン・トゥ・フォーエバー」を出したチック・コリアぐらいしか知らなかったが、「ジャズの歴史物語」の最後に記載されているミュージシャンの索引に「アスペクト・イン・ジャズ」を聴くたび、チェックをつけて覚えていった。



「アスペクト・イン・ジャズ」は深夜の1時に始まり3時まで。テープはどんどん増え、索引のチェックも増えるにつれ、授業中の居眠りも増え、テストの点だけが減っていった。

2017年12月4日月曜日

我が家のオーディオ③ 中森明菜とメタル・テープ

福岡に帰ってきてからもヤマハのコンポで聞いていた。
でも、レコードはいちいちひっくり返さなければならないし、同じ盤を聴くときは何度も針を落とさなければならない。
ので、カセットにダビングしていたが、操作が実に面倒くさい。いやになってくる。

そこで登場したのが、そういう面倒な操作をせず、レコードをかければ、自動的にカセットに音が入るコンポだ。
どれがいいかと迷っていると、中森明菜がボディコンで踊っているパイオニアのコンポのCMを見た。黒づくめの中森明菜に、黒いコンポ。これに決めた。



購入して一番最初にかけたのは、もちろん中森明菜。
来生えつこ・たかお姉弟が提供したデビュー曲の「スローモーション」のEP。明菜のレコードはこれしか持っていなかった。いい曲だった。



断然、カセットにダビングが楽になった。
レンタル・レコードが出始めで、ユーミンなどを借りてテープに入れまくった。
レンタル店にはジャズのレコードはほとんどなかったので購入するしかなかった。
カセット・テープの最高峰はメタル・テープ。普通のテープと比較すると音が全然違う。値段も相当したが、借りてきたレコードはすべてTDKのメタルに入れた。



ところが、このメタル・テープ、磁気に弱かった。カセットのヘッドの磁気で、みるみる音が消えて行ってしまった。何十本ものテープがただのゴミになった。安いテープは今でも音が出る。

その後、何度かこの手のコンポを買いなおした。6枚ぐらいCDを入れておけば自動的に鳴るものなども買ったが、飽きると友達にやってしまった。

その間もレコードをちゃんと聴くときは、ダブルデッキのカセットプレイヤーを買い足したヤマハのコンポを使っていた。
カセット一体型コンポに比べるとサラブレットのいななきようだった。やせこけたヤギではなく・・・。