2018年9月30日日曜日

ツイッギーで始まった「チョコフレーク」が終わる?

昨年の「カール(明治製菓)」の東日本での生産中止に引き続き、さらに古く50年以上の歴史をもつ森永製菓の「チョコフレーク」の今年12月での生産終了が発表された。

森永製菓、「チョコフレーク」の生産終了

食べるときに手がべたつくこともあり、携帯が汚れるなどの理由もあり、若年層に敬遠されていたという。



販売当時は画期的だった。
1967年に登場した時、ミニスカートのツイッギーが大きく乗ったポスターには「『トゥイギータッチのかるいチョコレート』 軽快・タッチ・センス ズバリ アッピールした新しいチョコと」と書かれていた。


50年たってそのタッチが敬遠される理由になるとは……。

「チョコフレーク」がすべてなくなるわけではないようだ。
日清シスコも生産している。



森永の「チョコフレーク」は終わるが、日清といえばラーメン。
とても面白かったNHKの「半分、青い」に引続き、10月から始まる「まんぷく」はその創業者のインスタントラーメンを発明した日清食品の創業者、安藤百福の妻の話だ。

日清シスコの「チョコフレーク」は森永に比べてその割合はかなり少なかったらしいが、「まんぷく」の放送開始とともに「チョコフレーク」がなくならないようふんばってほしい。

「さすらいのギター」とショパン

先日、懐かしい曲のエレキバンド演奏があった。
初めは「夜霧のしのび逢い」。原題は「赤いランタン」。
ギリシャ映画の主題歌で、映画は見たことはないが、主題歌はクロード・チアリの演奏で有名。


日本で公開されるとき、差し替えられたそうだ。元の曲はLos Mayasの「浜辺(La Playa)」。
こちらの演奏の方がしっとりとしている。


2曲目は「さすらいのギター」。
小山ルミでヒットした。

ベンチャーズも演奏していた。

元はザ・サウンズ(The Sounds)の「満州のビート(Manchurian Beat)」だそうだ。


似たような雰囲気の曲にザ・スプートニクスの「霧のカレリア」という曲もあるが、これは満州ではなく元歌はロシアの曲。

「さすらいのギター」を聞くと、ショパンのピアノ協奏曲1番を思い出す。
オーケストレーションが稚拙とかいわれるけど、ショパンは20才で作った。天才は違う。
ピアノが出てくるまで、かなり速いアルゲリッチの演奏でもやたらと時間がかかるが、甘いメロディーに心を奪われる。


この第一主題の初めが「さすらいのギター」の出だしにとても似ているので、思い出してしまうのだ。
このピアノ協奏曲のテーマをつかってポップスにしたのが「フィドル・プレイ・フィドル(Play Fiddle Play)」。
あまり、演奏されないが、1972年のオマさんこと鈴木勲カルテットの「BLUE CITY」に収められている。
ここでオマさんはベースをアルコで引きながら、メロディーを一緒にハミングしている。
なんとかっこいいんだと思った。

他に「フィドル・プレイ・フィドル」の演奏はないかとAWAで検索したら、1945年のスラム・スチュアートのものが見つかった。

スラム・スチュアートといえばアルコ演奏。この曲をオマさんと同じように弓で弾きながらハミングしているではないか。
しかも、ピアノはエロール・ガーナー。鈴木勲カルテットのピアノは日本のエロール・ガーナーと言われた菅野邦彦だ。
ということは、オマさんがスラム・スチュアートのアイデアをとって「フィドル・プレイ・フィドル」の演奏をしたのだと思う。

「BLUE CITY」はレコードもCDも買ったが見つからない。ライナーノートにはそう書かれていたのかもしれない。

2018年6月9日土曜日

突然、ジョン・コルトレーンが蘇った。

7日に音楽サービスのAWAの"Create a New Playlist"に、ジョン・コルトレーンのアルバムで「アンタイトルド・オリジナル11383」という曲があり、なんじゃいなと聞いてみると、コルトレーンの「じゃあオリジナル曲だ」の声から始まる、聞いたことのないBbペンタトニックのブルース。
コルトレーンのしびれるようなソロが終わり、マッコイのピアノも実にいい。インパルス特有の録音のもここちよい。
これが終わると、ジミー・ギャリソンのアルコソロ、まさにコルトレーン・クァルテットの定番もの。
エルビンのドラムもバリバリ。
なんだ、この曲は?
ど、思っていたら、翌日の6月8日の新聞には、"コルトレーンのスタジオ音源、55年越しのリリース"と各社が取り上げた。NHKまでがニュースで伝えていた。

ジョン・コルトレーン「ザ・ロスト・アルバム」





この曲が録音されたのは1963年3月6日。
なんで、こんなにいい演奏がオクラになったのかというと、世界的に著名なコルトレーン研究家の藤岡靖洋さん曰く、録音日は名盤「ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン」の収録前日の63年3月6日。藤岡さんは「当時のコルトレーンの演奏は前衛的と思われ、理解に苦しむ人が多かった。より世の中に受け入れられやすい歌手ハートマンとの共演盤を先に発表したのではないか」(日経)と。

確かに大衆うけするのは、甘いベルベット・ヴォイスのハートマンにからみつく、コルトレーンのサックスの音色と演奏の方だろう。


1963年3月ごろのビルボードのヒット曲はポール&ポーラの「ヘイ・ポーラ」やカスケーズの「悲しき雨音」などだ。


ちなみに3月9日の1位はフォー・シーズンズの「Walk Like A Man」(なんと、邦題は恋のハリキリ・ボーイ)。


ポピュラーでは、こんな曲が流行っていたのに、コルトレーンはインパルスに録音するようになって「ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」「インプレッションズ」とますます過激になってくる。


そんな中「バラード」は、アルトのキーのひとつが折れてはずれてしい、ありあわせのスプーンを折って、チューインガムとテープで補修し、その夜のラストまで、平然と立派なソロ演奏したパーカーに比べて、超神経質なコルトレーンがどうしても思った音が出なくて、バラードのアルバムを出したと言ったというが、どうも怪しい。
推測するに、エリントンとかハートマンの競演ものやバラードの方が売れると判断されたのではないか?
そして、売れたら、次はまた、本当にやりたいことをさせてあげるよと言われたのかもしれない。

これらがどれだけ売れたかわからないけど、次の年には「至上の愛」がつくられ、コルトレーンは、マッコイもエルビンもふるい落とされるほど、凡人では理解できない神の領域へと昇天(Ascension)してしまう


2018年5月20日日曜日

若大将の彼女と年上の女(ひと)。

西城秀樹が亡くなって、たてつづけに星由里子と朝丘雪路もいなくなった。

星由里子といえば、若大将の恋人。
今見ると、ちょっとしたことで腹を立てて、若大将を困らせる。
そのたびに青大将が当てつけ役にさせられていた。
「大学の若大将」の最後で白バイにスピード違反のキップをきられたりしていてかわいそうだ。
こんな勝手な女性はイヤだなと思ってしまう。



当時は、若大将がかっこよすぎて、「すみ(澄子)ちゃん」には全く興味がなかった。
それより、長谷川一夫主演の『雪之丞変化』の中の若尾文子に、世の中にこんなにきれいな人がいるのかと胸がときめいた、小学3年生にしてませたガキだった。

今、若大将シリーズを見ると一番いいのは飯田蝶子。あんなばあちゃんがいたら幸せだったろうと思う。
そのせいか、ばあちゃん子になった私は、毎年、夏休みはほとんど父の実家の田舎で過ごしていた。



おっとりしていた朝丘雪路は11PMに出ていた時に、大橋巨泉に「ボイン」と呼ばれていた。胸が大きかったからだ。

その朝丘雪路に一時はまった。胸が大きかったからではない。ボインにはあまり興味がない。
「雨がやんだら」という曲にはまったのだ。
毎月、月刊「明星」か「平凡」を買って、その付録に楽譜集がついていた。その「雨がやんだら」の朝丘雪路の顔が付いた譜面だけはなぜか覚えている。

♪濡れたコートで 濡れた身体で
あなたは あなたは
誰に 誰に 逢いに行くのかしら

レコードは見たことはなかったが、ネットで見ると、すさまじいジャケットだ。



中学生だったのになんでこんなませた曲にはまったのか。
やっぱ、年増好みだったのだろう。

ちょうどこの頃、森進一の「年上の女(ひと)」がはやっていた。



小学校6年生の時は、学校の事務のお姉さんに食事をおごってもらい、
中学に入ると生徒会の美人の2年生の副会長に気に入られ、運動会で黄色い声をあげてもらい、
高校に入ってからは上級生の飛び切り美人のお姉さんに私の持っていたゲバゲバのビニール人形をねだられたりした。


好きな芸能人も司葉子とか年増好みで、このままでいくと、本当に飯田蝶子まで行きそうだったが、高校になってまともになり? 南沙織にはまり、年相応の好みになり、岡田奈々、松田聖子と好みの年齢もだんだん下がってきて、私の妻は7つ年下だ。

最上秀樹?

西城秀樹が亡くなった。

私と同級生だ。といっても同じクラスにいたわけではない。
ヒデキがデビューした時には、もう、「博多みれん」で全然ダメだったが次の「青いリンゴ」で野口五郎が売れっ子になっていた。

この年(1972年)の暮、高校生の私は、心斎橋のそごう百貨店のお歳暮の包装のアルバイトをしていた。そこには、なぜかレスリングで世界選手権で優勝した大学生のお兄ちゃんも一緒にいたが、包む技術は私の方がはるかにうまく、どうやってやるのか教えてくれといわれて、変な感じだった。
その時、別世界のような支店長室付みたいな箇所があり、すごい可愛い女の子が何人もいて、彼女たちが、「ねぇ、ねぇ、ゴローってかっこいい。バレンタインにはどのチョコを送ろうかしら」と社員食堂で話しているのを私たち包装労働者は憧れの目で遠くから見つめていた。
その時は野口五郎が人気を独占していたが、翌年に西城秀樹が現れた。

当時、テレビで深夜になると、今でいうプロモーションビデオみたいな芸能ニュースがあり、「恋する季節」でデビューしたヒデキが公園で歌っていた。
たまたま見たのだったが、なにか今までの歌手とは違った雰囲気を持った新人がデビューしてきたなという印象だった。

野口五郎のデビュー曲は全く売れなかったが、西城秀樹のこの「恋する季節」はちょっとは売れた。次の「恋の約束」も売れたが、どんな曲だったかも思い出せない。
3曲目の「チャンスは一度」はみんな知っていてずいぶん売れたと思っていたが、2曲目の方が売れていた。

西城秀樹のイメージを決定づけたのは「情熱の嵐」からだ。
この頃(1973年)には野口五郎が甘い歌声、西城秀樹がワイルドでハスキーな歌声、そして中性的な声でかわいい歌声の郷ひろみと新御三家がそろっていた。

「傷だらけのローラ」が売れていた時、NTV紅白歌のベストテンで催眠術にかかって苦痛の表情でもがき苦しむヒデキに中継会場の渋谷公会堂のファンが「もう止めて、止めて」と泣き叫ぶ場面で、こっちまでが息苦しくなってきて、テレビを見ている人が催眠術にかかって解けなかったら社会的問題になるなといらぬ詮索をしたが、それはなかった。

友達のUは後ろ姿が西城秀樹そっくりだった。雰囲気があって女の子にもモテていた。
ある時、駅の階段を一緒に登っていると、中学生の集団の声が下から聞こえてきた。
「あっ、ヒデキとちゃうか」というと、あっという間に私たちを追い越して駆け上り、振り返って言った。
「ちゃう、ぜんぜんちゃうちゃう。けったいやな。ぶっさいくやなあ」
あたりまえだ。西城秀樹と比べるな!!
こんな田舎の駅に西城秀樹が赤と白の千鳥模様のコートを羽織って歩いているわけがない。

学生の時、劇をした。
できのいい「最上秀樹」にたいして、隣に住んでいる「最低フデキ」の母親役が私だった。

「YOUNG MAN(Y.M.C.A」が1979年に売れてから、80年代になってオフコースの「眠れぬ夜」をカバーしたりして、あまり印象にのこったものはなかった。
が、83年にもんたよしのりが作った「ギャランドゥ」が出ると、何とカッコイイ曲だ!
それまで西城秀樹の全盛期の曲はピアノだけで弾くにはなじまないものが多かったが、この「ギャランドゥ」はピアノでジャズにしてもいかしていた。



ギャランドゥの意味は気にもしていなかったが、ヒデキが亡くなって
「ギャランドゥ」=へそ下の毛 ユーミンが命名 深夜ラジオから浸透
という記事がネットにあった。
「へぇ、そう」と初めて知った。

翌年にWham! Careless Whisperのカバー曲を「抱きしめてジルバ」として出したが、この方が「ギャランドゥ」より売れた。
売れたので郷ひろみも同じ曲を「ケアレス・ウィスパー」とまんまの曲名でカバーしたのかな…???。

西城秀樹 CDシングル売上枚数

とにかくかっこよかった「最上ヒデキ」だった。

2018年5月17日木曜日

ブルースを聴く

「クール・ストラッティン」を聴いたら、無性にブルースを聞きたくなった。
ブルースと言っても、泥臭いブルースではなくて、ジャズのブルースだ。

ブルースの曲ばかり入ったアルバムはあまりない。
私が持っている、ジャッキー・マクリーンの「Bluesnik(ブルースニック)」と和田直の「COCO'S BLUES(ココズ・ブルース)」の2枚だけだが、まだ、あるのかもしれないが…。



オリバー・ネルソンの有名なアルバムに「The Blues and the Abstract Truth(ブルースの真実)」というのがあるが、楽曲はとてもカッコイイが、いわゆるブルース形式ではない。




この2枚。聞きまくった。

私にJAZZを教えたIが「ココズ・ブルース」を聞かせてくれた。
当時はスティープルチェイスから販売されていて、どうしてもほしくなり、近くのレコード店にはないので、心斎橋までいって手に入れた。
ジャケットもかっこいい。全曲、しびれた。
ミディアム・ブルースの「One's Blue」は和田さんのギターから始まり、そのままソロ。そして、粘りまくった本田さんのピアノ。古野光昭のベースもよかった。
「Billie's Bounce」では森剣治のアルト・サックスが馬のいななきみたいなフレーズから始まる。こんな曲調は聞いたことがなかったので、最初、デタラメ吹いていると笑っていたが、聞きこむうちに、病みつきになってしまった。
森さん。今、どうしているのだろう。
続く、アップテンポの「Guitar's Time」で和田さんは弾きまくる。それにつられて本田さんの熱いソロ。
「Sick Thomas」は本田さんのソロからだ。なんてカッコイイんだろう。すっかりジャズにはまってしまった。
コピーしたが、どうやってもあんな黒い音は出なかった。今でも出ない。
最後は古野さんのベースから始まるタイトルチューンの「Coco's Blues」。
CDになってからも何回聞いただろうか。何度聞きなおしても飽きない盤だ。サイコー。



「Bluesnik」は輸入盤しかなかった。ビニールを剥ぐと、輸入盤特有の匂いがした。この盤の曲をCDやパソコンで聞いても、この匂いがしてくる。
ジャッキー・マクリーンもすごくうまいソロもいいが、一曲目の「Bluesnik」でフレディ・ハバードがロリンズの「セント・トーマス」のフレーズを入れたりして、なかなか面白いアルバムだった。



2018年5月15日火曜日

パンストとチョコレート。そして、粋なブルース。

今日5月15日はストッキングの日だそうだ。
ストッキングといえば、ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」のジャケットを思い出す。
久しぶりに見てみると、なんと、どう見ても素足のような気がする。

いや、ナイロンの薄いストッキングを穿いているのかもしれないが、よく、わからない。

Cool Struttin' とは、CoolにStrutする。つまり、粋(Cool)に気取って歩くということだ。
この時代のキャリアウーマンが、戦後の象徴であるナイロンのストッキングを穿いて、タイトスカートでかっこよく歩く、その足元とSonny Clarkのいかした演奏が、みんなの心をとらえた。

1940年代にはナイロンストッキングが大流行したが、第二次世界大戦のためナイロンは貴重品になり、液体ストッキングとペンシルのラインで代用。1950年代にはアメリカでパンティストッキングが発明され、シームレスが新たなトレンドとなったそうだ。(Vogue「ストッキング100年の歴史」)

「クール・ストラッティン」が販売されたのが1958年。
とすれば、やはり、このジャケットのおみ足の持ち主は素足ではなく、最先端のパンストを穿き、ハイヒールで颯爽とニューヨークの街並みをオフィスに駆け抜けていったのだろう。

このアルバムはタイトルロールより、ブルー・マイナー(Blue Minor)の方がはるかに有名だが、やはりこのジャケットにはFのブルースCool Struttin' がピッタリだ。




今年、2018年はアツギによってパンティストッキングが日本で初めて製造・発売され50周年だそうだ。

 ATSUGIのパンストは50周年!!

足が枝のようなツイッギーが前の年の1967年に来日。
おばさんまでもがミニスカート。町中が埋め尽くされていた。

当時のストッキングはガータベルトを使っているタイプだったため、ミニスカートをはいたときに、太ももや下着が見えててしまう心配がありました。 そこでアツギではその女性の悩みを解決するために現在の形のパンティストッキングの生産をはじめ、1968年に販売を開始しました。
と書いてある。

ツイッギーのおかげでパンストが誕生したようだが、もう1つできたものがある。
小枝チョコレートはツイッギーをみて考えたそうだ。
でも、ツイッギーの出ていたCMは、小枝チョコじゃなくて、チョコフレークだった。


68才になったツイッギー。
50年前のおばさんのミニのような太い足にはならず、あいかわらずの細い足のようだ。
チョコをあまり食べなかったからだろうか…?


2018年1月13日土曜日

脳みそ吸ったるで~え


中学校2年に大阪に引っ越した。
福山から南海電車の難波駅に着いたとたん、スリというものを初めて見た。
「捕まえてくれ~え スリだあ!」
と大きな声で、男を追いかける人がいた。
人ごみをかき分けて、スリが走り抜ける。
走りながら、盗んだ財布をごったがえす人ごみの中に、パァーッと空中に投げた。
その瞬間、中のお札が舞い散った。

子どもながらに、とんでもない所に来たと思った。

小学生の頃、友達が大阪の親戚に行った話をしてくれた。
「大阪は怖いでぇ」「頭かちわって、脳みそぐちゃぐちゃにして吸ったるで~え」
という人がたくさんいるという。
なぜか、北九州なのに大阪弁を使っていた。
そのリアル感が恐怖を増していた。

みんな、大阪にはいかないようにしよう。
脳みそをストローで吸われるから。
と真剣に考えていた。

大阪での初めて遭遇した出来事がスリだったからたまらない。
いつ、脳みそをぐちゃぐちゃにされるか。
恐怖におののいていた。

転校して初めてクラスで紹介されると、大阪人は人懐っこくて、いろいろと話しかけてくる。
どうやら、脳みそをかちわるような奴はいないなと一安心していたら、昼休みになってみんなで遊び始めると、「よして! よして!」といいながら集まってくる。
なんだ!なんだ!
「よして」と言うならやめればいいのに、反対にどんどん人が増えてくる。
横にいたのにきくと、「よして」とは仲間に入れてくれの意味だと教えてくれた。
ああ、「かてて」の事というと、何やそれ、自分おかしな言葉、話すなぁ。と言われた。
言っている本人が、自分がおかしな言葉を話すと言う。
ますます頭がこんがらがってきた。
私はとっさに判断した。
これが「脳みそぐちゃぐちゃにして」ということではないだろうかと。

家に帰ってから、明日学校に行くと、脳みそ吸われるかもしれない恐怖で思わず涙を流してしまった。

2018年1月12日金曜日

「西郷どん」と「縁は異なもの」

NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」テーマ曲の出だしが、ダイナ・ワシントンの歌で知られる「縁は異なもの(What A Difference A Day Made)」になんとなく似ている。
曲全体の雰囲気は全く違うが、初回にテレビでテーマ曲が流れると、すぐに「縁は異なもの」が浮かんだ。


この歌。
「あなたに声をかけられて、たった1日でなにもかもすっかり変わってしまったの」という恋の歌。



「西郷どん」は男にも女にもモテた。
人をひきつける魅力は尋常じゃなかったに違いない。
「西郷どん」に声をかけられて、たった1日でなにもかもすっかり変わってしまったのではないか。

ちなみに、ダイナ・ワシントン。
ミュージシャン仲間にとてもモテた。
それはなぜか。
分け隔てなくみんなに体を許したそうだ。

「西郷どん」と犬

ここで言う「西郷どん」は隆盛ではない。
弟の「従道」だ。
司馬遼太郎の坂の上の雲には「つぐみち」とルビがあったが、今は「じゅうどう」と呼ぶらしい。
NHK大河ドラマでは、関ジャニの錦戸亮が演じているが、茫洋とした従道の雰囲気からは程遠い。



この従道が政府の役人として東京に行くとき、鹿児島の人たちはとても羨ましがったそうだ。
そのわけは……。

西郷どんはよかねぇ
東京には犬がどっさいいてうまやましか。

当時、鹿児島では犬肉を食べる文化があったそうだ。
いち赤(あか) に黒(ぐろ) さんぶち よん白(しろ)と言って、赤犬が一番うまいという。

私も犬の肉を食べたことがある。
金がない学生時代、大阪の釜ヶ崎で、犬の肉が売っていた。
一番上等な赤犬でも1キロ100円。
硬かったが、すきっ腹にはうまかった。


司馬遼太郎の「坂の上の雲」には従道のエピソードがたくさん書いてある。

サーベルを吊った幇間(たいこもち)と言われた桂太郎が、伊藤博文が内閣をなげだしたあと、明治34年6月2日、はじめて首相になった時、準元老のひとりである西郷従道にこの世間の不安を訴え、桂では貫禄がありますまい、というと、大笑いして、
「貫禄なんぞは、大礼服を着せて何頭立ての馬車にのらせて何度か往復させると、もうそれだけでつくものでごわす。それだけのものでごわす」といったほど大物だった。


日清戦争が終わった明治28年の国家予算が9160余万円であったのに、山本権兵衛が海軍に2億円(2018年度の97兆7100億円で換算すると、なんと213兆円という途方もない金額)という途方もない「海軍拡張計画案」というのが提出した。第3次伊藤博文内閣のころだ。その時の海軍大臣が西郷従道。

伊藤も大蔵大臣の井上馨もにがりきってしまい、従道に井上が、「西郷さん、どうもあんた、まじめにやってもらわねばこまる」といった。
西郷は、どんな意味だえ、ときくと、井上は声をあげて、こんなばかな予算請求があるか、2億円とはなにごとです、といった。西郷も負けずに大声をあげて、
「井上サン。ああたも伊藤サンも、ご同様に海軍のことはおわかりにならん。そういう仁(じん)に海軍のことを話してもむだというものです」
といった。伊藤も井上も大いにむくれ、われわれがわからぬから、海軍大臣たるあなたはそれを説明する必要があるのではないか、と迫ると、西郷は、「じつはわしもわからん」とアッハハハと笑ったという。

どれほど大物とおもわれていたか。

人物が大きいというのは、いかにも東洋的な表現だが、明治もおわったあるとき、ある外務大臣の私的な宴席で、明治の人物論が出た。
「人間が大きいという点では、大山巌が最大だろう」
と誰かがいうと、いやおなじ薩摩人ながら西郷従道のほうが、大山の五倍も大きかった、と別のひとが言ったところ、一座のどこからも異論が出なかったという。

もっともその席で、西郷隆盛を知っているひとがいて、「その従道でも、兄の隆盛にくらべると月の前の星だった」といったから、一座のひとびとは西郷隆盛という人物の巨大さを想像するのに、気が遠くなる思いがしたという。


そんな人たちが登場する大河ドラマ「西郷どん」。
まさか、犬の食べるシーンはないと思うが……。
これからが楽しみだ。

2018年1月9日火曜日

無謀にも教員採用試験に挑戦!

インフルエンザに懲りて、大阪から九州に帰ってきた。
大学は中退しているので、小学校の教員にでもなろうと思いついた。
早速、教員養成所の入試を受けた。
不精髭でむさくるしい私服は私だけだった。
スケジュールを書いた黒板を見ると記述試験終了後、面接がある。
見落としていた。
私一人だけ異様だった。

次の日、早々に不合格の通知が届いた。
この養成所を卒業した妻が言うには、風紀にはとても厳しかったそうだ。
試験問題ができたがどうかはわからないが、できていたとしても必ず不合格だっただろう。

その時、玄関に教員採用試験の合格者が張り出されていた。
たったこれだけという人数だったので、びっくりした。
教育大学だともっと合格率が高いと思ったが、採用試験対策ばかりやる養成所や女子大のほうが合格率は高いとわかり、とても、教員にはなれないなと諦めた。


その私が、何故、再び小学校の先生になろうと決意したのか。
当時、付き合っていた彼女が中学の音楽教師で、父親も校長を目指す中学の教頭だったからだ。
彼女は言った。父が、どこの馬の骨ともしれない男に大事な娘とは付き合うことも許さない。教員しか認めない、と。
憧れのお嬢様だったから、無謀にも当時50倍はあった小学校の教員採用試験に挑戦した。
といっても、試験まで1か月しかない。

教員をしている友達のUに相談すると、採用試験に二浪しているYさんを紹介してくれた。
尋ねると、部屋の壁の4面に1年間365日の時間割が貼ってあった。
1日10時間以上、びっしりと書き込まれたスケジュール表だった。
これを本当にやったんですか? と聞くと、はい、全部やりました。それがこれですと、何十冊ものノートを見せてくれた。
彼は早稲田を出て、東京で企業に勤めたが、どうしても小学校の先生になりたくて、会社をやめて九州に帰って受験勉強をしているが、2回ダメだったという。
見ただけで頭痛がしてきた。

私は人生においてほとんど勉強をしたことがなかった。
高校は入試問題直前2週間という薄っぺらな本を1週間で挫折して受けた。
大学は現役では1校1学部しか受けず、しかも、全くわからないので、一番前でストーブの温かさに負けて寝ていた。
予備校の試験にも落ちて無試験クラス。途中はほとんど行かずに大阪の難波で遊んでいたが、さすがに直前1か月間はラジオ講座をまじめにやった。
そのくらい勉強していなかったので、この時のショックは計り知れないものがあった。
早稲田で、365日×毎日10時間×2=7300時間。とんでもない天文学的な時間だった。

自分なりに計画を立てた。
生徒に教える教授法を最初に読んで、それを参考にした。
一番に目に入ったものが、「エビングハウスの忘却曲線」。
無意味な言葉をどんどん覚えさせても、1時間後に半分、一日たつと1/4しか残らないという実験だ。
これはいいことが書いてある。
まじめにこつこつとノートをとってもすぐに忘れてしまうのでそんなものはムタだと解釈した。

7300時間に対抗する方法を考えた。
過去に知り合いが受けた教員採用試験問題集をUが30冊ほど集めてくれた。
小学校はもちろん、中学、高校教員用のものまであり、積み上げるとかなりの高さになった。
幸いなことに答え合わせのために、正解がすべて書き込んである。
その問題集を上から下まで全冊片っ端から、答えをひたすら見ていく。ただ見るだけ。
ノートは一切取らない。
勉強は質より量。忘れてもかまわない。
どうせ覚えても忘れるのだから、また見る。その繰り返し。
見るだけだから、時間もかからない。気楽にやれる。
何度も見ていると、傾向性もわかるし、似たような問題もたくさん出てきて、どんどんわかるようになってきた。
仕事も忙しかったので、1日2時間ほどこれをやった。
そのうち、いつもの悪い癖が出て、本の題名に魅かれて、どんな本だろうと興味が湧いてきた。
時間もないのにペスタロッチの「隠者の夕暮れ」やデューイの本などを読んでしまった。

あと一週間に迫った時、Yさんから一緒に勉強している4名のメンバーと喫茶店で最後の受験対策をやるので来ませんかと誘われた。
自分がどのくらい身についているかを確かめるいい機会だと参加した。
そこで初めて聞いた言葉。「学習指導要領」。
聞いたこともない言葉だった。
Yさんたち全員が、「指導要領も知らないの!」と声をそろえるほど、びっくりしてあきれ返られた。
その日は「指導要領」の暗記具合を確かめるものだったので、チンプンカンプンで、こんなに勉強した人たちが受けるのか。それにみんなも何回も挑戦していると聞いて二重にショックを受けた。
何もわからずにポカンとしている私に、みんなは「指導要領」のポイントとか、採用試験の重要な部分を占めて、配点も高いなど親切に教えてくれた。
ライバルとはみなされなかったからだろう。

とにかく手に入れないといけない。近くの本屋に行くとそんなものはないという。
天神まで行って、小学校用の全教科を買ってきた。
「指導要領」対策の繰り返し見る作戦をプラス1時間増やした。

受験当日、周りの受験生はみんな自分がやってきた問題集をもって、試験が始まるギリギリまでそれをやっていたが、私はあまりに膨大な数だったので1冊も持っていかなかった。
目のやり場がなく、ずっと外の樹木を見つめていた。
みんなはそれを白い目で見ていた。たぶん、きっと冷やかしだろう。受かるつもりがないから…と。

いよいよ試験が始まったが、やってみると案外簡単だった。
帰宅してから、絶対に受かっていると、Uの家に行って事前の合格祝いをやった。

結果は…
合格。
こんないいかげんな私が通ったのだから、Yさんも絶対に合格していると確信して、お礼に伺って「合格おめでとうございます」というや、Yさんの家にいた友達が「きさま、いいかげんしろ。ぶん殴るぞ」「自分が通ったからといって、人をバカにするのもほどほどにしろ」と烈火のごとく怒った。
5人グループは全員不合格だった。

2次試験は、面接、ピアノの弾き語りと水泳だった。
面接は5人ぐらいのグループに分かれて、それぞれ読んだ本の感想を述べるみたいな内容だったと思う。
一番目に発言したが、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に感動していたので、我ながら滔々と話した。
今読むと何をそんなに感動したのかわからない。

問題はピアノの弾き語りだ。
ピアノは手慣れたものだが、歌はとにかくヘタ。
前の順番の女の子は、弾き始めるやいなや面接官に演奏を止められ、泣き崩れた。
人前で歌を、しかもこんなスチュエーションで……。
緊張が走った。
「とべとべトンビ」を選択していた私は覚悟を決めた。
ピアノ協奏曲みたいなイントロで始まった「トンビ」は、歌が始まると同時に、面接官も周りも思わずプッと吹き出すようなものだった。
そのイントロと伴奏で、次の受験者が全く弾けなくなって申し訳なかったが、歌をカバーするためにはそれも仕方がないと心を鬼にした。

最後は水泳だ。何メートルのプールだか忘れたが、往復の距離を泳ぐものだった。
私はクロールができない。歌同様、とにかくヘタ。でも、平泳ぎは自信があった。
平泳ぎとクロールでは圧倒的な差がある。私以外は全員クロールだった。
ここでビリになれば、不合格になるかもしれない。とにかく全力で挑もうと必死で水をかいた。
泳ぎ終わって顔を上げるとゴールには誰もいない。
どうしよう。完敗だ。と思った瞬間、バシャバシャと音が聞こえ、残りの人たちがゴールしてきた。
一番早かったのだ。いや、クロールが全員遅すぎたのかもしれない。

2次試験も合格した。

が、決定的な問題があった。
教員免許を持っていなかったのだ。
教員免許を持たなくても採用試験は受けられた。

通信教育という手もあったが、それでは採用試験の有効期間が切れてしまう。
教員資格認定試験というものがあることを知った。
内容をみると採用試験など問題にならないほどの難問だった。
数パーセントしか合格しないという。

とにかく、それを受けるしかなかった。
これは採用試験と違って、教職に関するものと、教科を選択したもので受験する。
数学と音楽と家庭科を選んだと思う。
数学もできた。音楽は完璧。あとは家庭科を残すのみ。
これで受かったかなと思いながら、家庭科の問題が配られた。
料理方法とかミシンの使い方ぐらいかとあまく考えていたが、グラフばかりでもこれは何を表しているとか、見たことのないものばかりで、結局、1問も解けなかった。
家庭科がこんなに奥深いものだとは知らなかった。


結果は不合格だったが、あまり落ち込まなかった。
その前に彼女から不合格を告げられ、別れていたから……。
私のせいで教員になり損ねた方、不純な動機でごめんなさい。


その後、周りにはたくさんの教員試験浪人がいたが、この勉強法を教えると、みんな合格していった。
Yさんだけは、プライドを傷つけられたみたいで聞く耳を持たなかったが、1万時間をこえる圧倒的な勉強量で合格し、後に教頭にまでなった。

成人式にはビル・エヴァンス

娘たちの成人式があった。
「たち」とは手塩にかけて育てた双子だ。

予定日より1カ月前に目の前で妻が破水したのを見た私は腰を抜かしてしまった。
女はこんな時強い。すぐに車に乗せて病院に連れて行ってと言った。
帝王切開で取り出すと1500と1700グラムしかなかった。
妻はそのまま出産した病院で10日間入院し、2人は別の病院のNICUに入った。
保育器の中にいる我が子は片手で抱えることのできるくらいの小さな子だった。

毎日、退社すると妻のいる病院で冷凍された母乳をもらい、NICUに持っていた。1週間ぐらい片道40キロぐらいを通い続けた。
その母乳を生まれて4日目に口に管で繋がっている注射器で、50CC初乳したのは私だ。
たったこれだけと思うほど少ない量だった。

1カ月ほどしてようやく保育器を出た。
最初の沐浴も私。NICUには1カ月半いた。

退院してからも、一人が夜中に泣き出すと、泣き止むまで抱いているが、もう一人が起きて泣き出す。
交互に泣くので夜中じゅう起きていた。かなり長い期間続いた。
その間、妻は日中の子育てに疲れて爆睡していた。

保育園への送りは毎日、迎えもほとんど私。
高校になってからもクラブで遅くなるので駅まで迎えに行った。
体も人並みになった成長した娘たちがあでやかな振袖で成人式を迎えた。


私は成人式に行っていない。当時の成人式は1月15日。
その日、大阪のフェスティバルホールでビル・エヴァンスを聞きに行った。
ハンク・ジョーンズ、ジョン・ルイス、マリアン・マクパートランドもプレイし、なんとも豪華な顔ぶれだった。
と思って、調べてみると、成人式の翌日の16日だった。
単に成人式に行っていないだけだった。
1人暮らしだったので行くという感覚もなかったのだろう。

今でも、毎年、成人式の日になるたびに、首をまげて下にした顔を左に曲げて、髪を垂らしながらうつぶせ気味に演奏するビル・エヴァンスの姿を必ず思い出す。

2018年1月5日金曜日

芸能人格付けチェック2018

正月といえば、以前は「新春かくし芸大会」だった。
東京オリンピックのあった1964(昭和39)年から始まり、毎年1月1日にこれをみるのを楽しみにしていた。
芸能人が出身地で東西に分かれ、司会が高橋圭三、ハナ肇と植木等が長い間キャプテンだった頃、歌手がドラマに出ることはめったになかった。
こちらも幼かったのだろうが、とても新鮮で、英語劇や中国語劇など、さすがタレントだと感心して見ていた。

番組終了近くの年になると、かくし芸も毎日出ている芸人の方がうまく、ドラマなどをやっても、普段見ているものと変わらないのでおもしろくなかった。

そんな中、「芸能人格付けチェック」が登場した。
実に面白い。
普段、我々庶民が口にすることもない高級料理やワインをあたりまえのように食べている芸能人たちが見事にはずす。
絶対、自信があると胸を張っているが、やはりはずす。
手が届かない憧れの品々に接していても、さほど我々と変わらないのだと、小市民の劣等感の溜飲を下げるには、これほど面白いものはない。

視聴者は、自分だったらわかるかな? とか思いながら楽しむこともできる。
しかし、料理は食べなくてはわからないし、食べたとしてもそんなにいいものを食べたことはないので、間違えるに違いない。

おまけに目隠しをしたら、味覚までわからなくなってしまう。
NHKのガッテンで、目隠しをして魚の味を確認すると、魚の味を構成する成分はほとんど同じなので、魚通の人でも味がわかならなくなるそうだ。
また、別の実験では、鼻の奥にあるにおいのセンサー「嗅神経細胞」が、20代をピークに加齢と共に減っていってしまうため、目隠しをしてあるものの臭いをかがせてもわからなくなっていくという。

なんて、言い訳をしながら見ている。


テレビで挑戦できるのは、視・聴・嗅・味・触の五感の中で視覚と聴覚だけだ。

今年の聴覚の初めは、琴・尺八・三味線を使った和楽器の演奏。
学生和楽器サークル「関東学生三曲連盟」(早稲田大学・慶応大学・明治大学・東京大学など25の団体から選りすぐりの和楽器奏者の学生が参加)と、日本音楽集団(世界31カ国でも講演活動で海外でも高い評価を受けている1964年に誕生してから芸術祭大賞を受賞するなど華々しい活躍を続ける国内屈指の和楽器演奏集団)の演奏を較べるものだった。

これは、わかりやすい。曲名はわからないが、最初の出だしから音が違う。
学生は曲が間延びして、合奏も揃っていないが、プロの日本音楽集団は音の輪郭もはっきりしていて、和楽器独特の間も余裕があった。


次は、毎年恒例の1挺(ちょう)が億単位の楽器と初心者用のものとの比較。
今回は、ヴァイオリンとチェロの三重奏で音色を聴き分けるもので、総額80万円の初心者用ヴァイオリン2挺とチェロと総額39億円のヴァイオリンとチェロ。

ヴァイオリンは「ストラディバリウス・ナチェス」と「グァルネリ・デリ・ジェスピタン」。
ストラディバリウスの中でも最も優れているとされる黄金期(1716年)に作られた名器。
世界におよそ60本しかないグァルネリの中でも最も充実したと言われる1741年に作られたストラディバリウスと並び称される名器。

チェロは「マッテオ・ゴフリラー」。ストラディバリウスをも凌ぐ力強い音色と美しい音質が特徴だそうだ。

曲はJ・S・バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調(BWV.1043) 第1楽章 Vivace だ。
この曲は、2つのヴァイオリンとオーケストラで演奏されるものだが、ヴァイオリン2挺とチェロ1挺の三重奏で演奏された。



これも簡単だったが、初心者用の楽器とストラディバリウス級の楽器では明らかに音色も響きも違うが、最高技術で作成された現代のヴァイオリンとストラディバリウスを聴き比べるとバイヤーやプロの演奏家でもわからない人も多いという。


どうせやるなら、超一流の演奏家が弾く初心者用楽器と、普通のプロ演奏家が弾くストラディバリウスでやれば、果たしてわかるかどうか?

世界で最高のオーケストラはウィーン・フィルとベルリン・フィル。
普通のオーケストラの団員でもとても高い楽器を使用していることが多いが、ウィーン・フィルでは、楽器保管室にヴァイオリンが一斉に置かれ、団員はこれが自分のものとは決めもしないで、適当に手に取り、そのまま演奏しているという。
それで、とてつもない響きと音色をだしてしまうからすごい。
しかし、上には上がいるものだ。
そのウィーン・フィルのコンサート・マスター(コンマス)といえば、世界中のオケ奏者の憧れ。ソロでも十分通用するようなプレイヤーだ。
世界的なヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフがウィーン・フィルを指揮した時、コンマスにこういう風に弾いてくれと指示した。
コンマスはそんな難しいことは不可能で絶対にできないと文句を言ったら、オイストラフは怒らずに「あっ、そう。あなたのヴァイオリン貸して」と、そのフレーズをいともたやすく奏でたという。
恥をかかされたコンマス。怒って席を立って練習に来ない。何日かして戻ってきて、必死で練習した成果をオイストラフに聞かせると「それでいい」と言ったという。



天才はとてつもなくすごい。
エジソンは「天才とは1%のひらめきと99%の努力である。」といったそうだが、これは誤訳で「1%のひらめきがあれば、99パーセントの無駄な努力をしなくてもよい」が正しいそうだ。

といった理由で超一流の演奏家と普通プロ演奏家の比較は不可能だろう。
ウィーン・フィルのコンマスが恐れをなしてしまうほどの演奏家の横では、とても普通の演奏家は尻込みしてしまい、曲にもならないからすぐにわかってしまう。
オイストラフは指揮者としては2流だったが、オケの弦楽器奏者が緊張しすぎたせいかもしれない…?
名選手、必ずしも名監督にならず。

あと一つの視覚の問題は盆栽。
「内閣総理大臣賞などの受賞暦を持つ作家の1億円」と「餅やあんこで作ったお菓子」。
これは難問だった。
CMの後で答えが出るのだったが、もらったシャンパンを飲んで、酔っ払って寝てしまい、結果は見逃してしまった。
どうも、お酒と盆栽に関しては凡才以下らしい。

ぜんざいとウナギ

今日、地域でぜんざい会があった。
早朝から雨が降り、寒の入りで肌寒かったが、温かいぜんざいはとてもおいしく、おかわりをした。

近頃はぜんざいを食べられるようになったが、長い間、食べられなくなっていた。
甘いものが苦手なのではない。
幼い頃から、鏡開きになると、鏡餅を割って生えたカビを削り、母の作ってくれたぜんざいの中に入れて食べるのが待ち遠しかった。
酒を飲み始めてから食べられなくなったわけでもない。
みんなで河原でぜんざいを食べようということになり、ドラム缶を半分に切ったものを用意し、直径1メートルほどの鍋で小豆を煮た。
焦げないようにとぐるぐる回していたら、かき混ぜるたびに浮かんでくる小豆が異様に気持ち悪くなってきた。
それ以来、小豆はもちろん、豆類も受け付けなくなった。
人間、何がきっかけで好きだった食べ物がいやになってしまうかわからない。

ウナギもそうだ。
一番好きなものは何ですかと尋ねられて「ウナギ」と言っていた。
どこかへ行くたびにおいしそうなウナギ専門店があると必ず立ち寄っていた。
柳川はもちろん、大阪の道頓堀の鰻重で中が三重になったもの、諫早にある天然鰻専門店にも行った。

ほっかほっか亭(今のほっともっと)で土用の丑のウナギデーがあり、安かったので続けて3日連続食べた。
3日目、食べ終わってから、胸がムカムカしてきて、モワッとしたものが下からこみ上げてきた。
吐いたわけではないが、その臭いと感触でそれ以来、ウナギを見るのも嫌になった。

でも、近年、あまりに高いので年に数度しか食べる機会がない。それが功を奏し、楽しみになるくらいに回復し、とてもおいしくいただいている。

健康のため、食べすぎには注意しましょうというが、人生の楽しみのためにも食べすぎはよくない。

2017年12月31日日曜日

風邪と共に去りぬ

年末、久しぶりに風邪をひいた。
マンションなので少し着込んでいれば冬でも暖房はつけなくてすんでいた。
ところが、今年はとにかく寒かった。
気温が急に下がったせいだろうと思っていた。
体を温めようとコーヒーを飲むと後で寒くなる。紅茶だと少しはましだった。
布団にくるまっても寒くて夜中に何度も目が覚める。
これも寒さのせいだと思っていた。
4、5日続いた。
念のためにと熱を測ると36.7度。微熱がある。
鼻水も止まらないので、医者に行くと、ただの風邪だといわれ、咳止めと鼻水止めの漢方薬、それに点鼻薬というものを初めてもらった。
これには感動した。つまった鼻が1滴でスゥーッと通じる。かえって恐ろしい。
診察の最後に医者から「いいですか、2、3日して熱が38度以上になったらインフルエンザかもしれないのでその時は来てください」といわれた。

自慢にもならないが、インフルエンザの症状に関しては私の方が熟知している。
12回も罹ったからだ。
最初は大阪で22才の時。これにはまいった。一人暮らしでご飯も食べられない。熱もきつかったが空腹でがまんできない。
そのまま大阪で暮らしていこうとずっと考えていたが、二度とこんな思いをしたくないと、実家のある福岡に帰ってきた。
インフルエンザが大きく運命を変えたといっても過言ではない。

1年に3回、立て続けにかかったこともある。
A香港型とAソ連型にB型。
型が違うので3回もかかってしまった。
免疫は1年しか続かないから、また元の振り出しに戻ってしまう。

今では、インフルエンザは感染力が強いので絶対に会社や人の多いところに行ってはならないとなっているが、若い頃は熱があっても仕事に出ていた。
元々、熱には強い。
体温計は38.5度。熱があったのでなんとなくだるいので、病院に行くとインフルエンザだと診断された。
次の日は体も軽く、さすがにタミフルはよく効くなと、熱を測ると39度。
39度だとあまりきついとは思わない。
私だけが異常だと思っていたが、同じ職場の経理担当もそうだという。彼女も熱が出ても膨大な量の経理書類をたんたんとこなしていた。

一度、40度を超えたことがある。あまりにきつさに、今までもらっても一度も飲んだことのない解熱剤を使った。医者から座薬は強すぎるとからと軽い錠剤をと渡されたものだった。
飲むと嘘のように熱が下がった。
こんなに効くのだったらもっと早く飲めばよかった、と安心して寝ていると、突然、天井がグルグルと回り始めた。
吐き気がして、本当に死ぬかもしれないほど苦しかった。
薬をネットで調べると、厚生省がこの薬はとても危険で何人も死者が出ているので使用は控えるようにとの記事が載っていた。
それ以来、すいているという理由で通っていたその個人病院には行っていない。

熱が下がってくると、大量に汗をかく。
そろそろインフルエンザも治り始めたその後に、本当のきつさが襲ってくる。
微熱にはとても弱い。
以前の平熱は35度。とても低い。だから37度前後がたまらなくだるい。38度以上よりもきつい。
咳が3か月ぐらい止まらなくなり、痰も絡む。
抗生剤をもらうがなかなか治らない。毎年、その繰り返しだった。

妻が咳が止まらないのは喘息の気があるのかもしれない。呼気NO(一酸化窒素)濃度測定で評判のいい病院に一度診てもらったらというので、早速、行ってみた。ものすごい人数だった。
やっと順番が来て、呼気NOモニターに息を吹き込んだら、うまくいかなかったので、もう一度と言われ、今度はちゃんと測定できましたと看護師から言われた。
しばらくたって医者から、診断が下された。
「数値は100を超えています。喘息です」

とりあえず、気道の炎症を抑えて発作を予防する「レルベア200エリプタ30吸入用」というステロイド薬を吸引しなさいと、全部で薬代が5種類で6000円もかかった。



帰って調べると、日本人の成人健常者における呼気NO濃度の正常値は約15ppb。上限値の約37ppbをはるかに超え、100以上は呼吸困難で即、緊急入院レベル。
ステロイド薬をまじめに吸引したが、症状はいつもと変わらない。この医者もいい加減。

4、5年前、最後にインフルエンザに罹ってから、平熱がなんと36度になった。ずっとそのまま続いている。それ以来インフルエンザにはかかっていないし、風邪もあまりひかなくなった。


この暮れに何故、風邪をひいたか。思い当たる節がある。
職場に行くと、となりの同僚がマスクをしていた。
どうしたのかと聞くと鼻水がとまらないのだと言う。
マスクをとると右の鼻の穴にテッシュをつめていた。
生まれてこのかた一回も風邪などひいたこともないのにまいったと話す。
何日間も横で話をしていた。
数十年、風邪をひいたこともない人の傍にいては、私が獲得した微弱な免疫力など太刀打ちできなかったに違いない。


そんなこんなで散々な年末だった。
咳や鼻水はまだ出ているが、気温も上がってくると同時に熱も下がった。
Gone with the Wind ならぬ Gone with the cold
風邪と共に2017年も去っていく。

2017年12月18日月曜日

終わったシリーズ第3弾 「直虎」とラヴェル

終わったシリーズ第3弾

第1弾 べっぴんさんと大阪万博70'
第2弾 「ひよっこ」終わる


「おんな城主 直虎」が終わった。1年なんてあっという間だ。
視聴率はあまりよくなかったらしいが、「本能寺が変」など新しい歴史解釈もあり、毎回楽しみに見ていた。
今年の5月に「井伊直虎の生涯 不屈にして温柔」と題して、作家の梓澤要さんの話をNHK第2ラジオで聞いた。さっそく「井伊直虎 女(おなご)にこそあれ次郎法師」を読んだ。
NHKの大河ドラマと違う部分もかなりあり、かえってそれが面白かった。



大河ドラマの音楽は「花は咲く」を作曲した菅野よう子。
テーマ曲「天虎 ~虎の女」の演奏はパーヴォ・ヤルヴィ指揮のNHK交響楽団とラン・ランのピアノ。パンダではない。

この曲がかかるたびにラヴェルの弦楽四重奏曲が浮かんでくる。

1990年になると、CDが主流になってきた。
CDは画期的だった。
腫物を触るように取り扱い、年に一度カビがついていないか確認。薄いビニールで覆われている輸入盤なんか初めからカビだらけのものもあり、手入れも大変だったレコードに対して、CDは手軽で、手あかがついても簡単に拭けた。何度聞いても擦り減らない。置き場所もラックに何段にも収まる。
レコードだと、たまにカートリツジを落とし損ねて、針が曲がってしまうばかりか、レコードに傷がついて、その個所になると、プツ、プツ、プツと悲しそうに「お前のせいだ…。あぁ、痛い」と何度も繰り返す。
傷がつかなくても、ほこりが入り込んでプチプチいう。本当に面倒くさかった。

CDは初めはクラシックが多かった。といっても数枚だ。
ジャズのレコードは3000枚くらいになり、有名な定盤からレアものまで揃えていたからだろう。
レコード2000円ぐらいだったが、CDは3000円以上した。
裏の印刷されていない鏡のような面に傷がつかないよう、緑や黒のちょっとふわっとした保護シートを買うたびにくれた。今はそんなものはつける必要はないことがわかっているが、町の図書館でCDを借りるとケースにたまにそれがついていることもある。



最初に買い求めたのは、アルバン・ベルク弦楽四重奏団「ドビュッシー&ラヴェルの弦楽四重奏曲」。
もちろんラヴェルという名に魅かれてだ。ベートーヴェンじゃなくてよかった。大フーガなんて買っていたら、もうクラシックはいやだと思ったかもしれない。
カップリングされているドビュッシーも弦楽四重奏曲は1曲しか書いていない。地味に聞こえる弦楽四重奏、フランス人はあまり好まなかったのだろうか。モーツァルトは23曲、ベートーヴェンは16曲、ハイドンはなんと80曲以上も書いているのに。

ラヴェルの第1楽章の第2主題の胸を締め付けられるような甘美な旋律に、世の中にこんな美しい音楽があるのだろうかと、何度も繰り返し聞いた。



そのメロディーと「天虎~虎の女」がどうして混じり合うのだ。
チャンチャチャ~ンのイントロではない。曲のメロディーだ。「天虎~」を頭の中で鳴らしていると、いつのまにかラン・ランのピアノやN響のオケの音はフェイドアウトして、弦の音だけになり、ラヴェルになる。

おなじヒポフリギアという教会旋法の音律が使われている。シドレミファソラシという音階。
ちなみに第一主題はミファソナシドレミのフリギアだ。
曲の雰囲気がものすごく似ている。
服部克久の曲を小林亜星が訴え、最高裁で服部克久が負けた「記念樹」どころではない。

このCD、久しぶりに聞いてみようと思った。
普段ならラヴェルの弦楽四重奏曲しか聞かないが、最初に入っているドビュッシーは20年以上聞いていない。
どうせならと、ドビュッシーからかけた。
ラヴェルはモノクロのイメージがあるが、ドビュッシーには色がついてるな。などと思いながら聴いていると、な、なんと、雰囲気がよく似ている。第一主題はヒポフリギアではないか。
この弦楽四重奏曲、ラヴェルは、さすがドビュッシー、出来がいいな、といっていたという。
ラヴェルが弦楽四重奏曲は1902年。この曲を作った頃、フランスの最も権威のあるローマ大賞の音楽賞に何度も挑戦していたが、結局、第1等はとれなかった。ドビュッシーの弦楽四重奏曲は1893年、ほぼ10年前だ。
ということは…。
ドビュッシーがオレの曲をまねしやがってと、今の日本の裁判所に訴えたら、絶対にラヴェルは負けている。
そして「おんな城主の直虎」をも打ち負かす、私の大好きな弦楽四重奏曲は永遠に演奏を聴くことができなかったに違いない。
でも、それは絶対にないだろう。
ドビュッシーはラヴェルの曲よりも女性の方に興味があったから。
おしまい。

2017年12月17日日曜日

女神からヨーロッパ

ラヴェルに恋するしかなかった私は、すぐに心斎橋のミキ楽器に向かった。
棚にずらっと並べてあるうすい緑にオレンジの帯の全音の楽譜を探してもどこにもない。
黄色い帯にも、青い帯の楽譜にもラヴェルのソナチネはなかった。

店員に尋ねると、ここにございますと、輸入楽譜のRの棚に連れて行ってくれた。
あった。ペラペラの楽譜だった。
開いて確かめると、みどり先生の弾いたのは第3楽章だった。
薄いので安いかと思ったら、分厚いベートーベンのソナタ全集より高い。
小遣いが限られていた高校生には手が届くものではなかった。




最初のレッスンの日が来た。
妹がピアノのレッスンで使っていたバイエルとブルグミュラーをカバンに入れておばちゃんちへ向かった。

麗しの女神。みどり先生がそこにいた。
私は、バイエルとブルグミュラーを見せて、「先生、やっぱり、ピアノといえば、これから始めるのでしょうか」と取り出して言った。
先生は、「他の生徒にはそれを使うけど、あなたには使わない。」と、ラヴェルのソナチネより更にペラペラの楽譜を目の前においた。
私は一瞬、目を疑った。そこに書かれた文字は『ピアノの一年生』だった。



あの誰もが弾くアラベスクが載っているブルグミュラーよりさらに簡単なものだった。
「えっ、これですか」
「そう、ちょうど新しい教材を使ってみようと思った時に、あなたが来たから」と言われた。
ベラ・バルトークが考案したピアノの初心者のための教材だった。

少しも動じなかった。みどり女神は師匠だ。どんなことでも従っていこうと肝に銘じていたからだ。

とはいえ、最初はドレミファミレドからはじまるユニゾン。
簡単、簡単と弾くと、先生はフレージングがなっていない。一音一音の音符の長さもそれぞれの音の強さもバラバラで、均等に音が鳴っていない。全然、ダメという。
何度も何度も繰り返して弾かされた。
「よく、音を聞いて。ほら、左手の薬指の音が特に弱いでしょう。」
「親指に力が入って外に反っているわよ。意識して、もっと脱力して。」
言われれば、言われるほど頭が混乱して、指先の動きは不安定さが倍増していく。
レッスンの1時間はあっという間に過ぎて、12小節の初歩の初歩の一曲で終わってしまった。
とても疲れた。
このままでは、恋したラヴェルは聳え立つエヴェレストの頂上より遥かに高く、公園の幼児用の滑り台でさえ登れないのではと憔悴した。

家に帰ってから、『ピアノの一年生』と共にもらった『ハノン』で指の練習をするのだが、自己流で始めたピアノなので、どうしても親指に力がはいる。

次のレッスンで、初めに親指の話をしたら、構造上、親指は反りかえりやすいという。
親指が外に曲がらないように、先生の家では、小さいころから、ひねるところが3つの突起になっているものではなく、一本のレバーになっているものにすべての蛇口にかえたという。正真正銘のお嬢様だ。

どんな、音符の存在にも意味があり、大切な役割をになっていることを叩きこまれた。
書かれていなくても下に向かっている音か、上に向かうものかも丁寧に教えてくれた。
バルトークはハンガリー生まれの作曲家だから、その音階や響きは独特なものもある。最初は違和感があったが、先生から教わるごとに、言い古された表現だが、音苦が音楽になっていった。

普通のピアノの先生なら、全く経験もない大人の初心者でも早ければ2、3か月で終わるであろう『ピアノの一年生』を半年かけてやった。
その間、ハノンやチェルニーの30番も併用したが、この『ピアノの一年生』で徹底的に、音符の読み方、曲の解釈、曲想での指の使い方などを叩きこまれた。

やっと「一年生」を卒業し、つぎもバルトークの練習曲集『ミクロコスモス』を渡された。
名前がカッコイイ。
『バルトーク ピアノの一年生』と印刷されていたものから、楽譜には日本語が一切書かれていない完璧な輸入楽譜。



「ミクロコスモス」。辞書で調べると「小宇宙」。
エヴェレストの上をいくものではないか。
茶色の表紙の楽譜を見つめワクワクした。
5巻まであって、最初の1巻は『ピアノの一年生』より簡単なものだったが、みどり先生に音楽を教え込まれた私は、もうこんなものとは思わなかった。
最後までいくと「小宇宙」どころか、どんな「マクロコスモス」に行けるのだろうかと、その日は眠れなかった。

期待に胸を膨らませた、一回目の『ミクロコスモス』のレッスン日。
みどり先生が、少し残念そうな顔で私に言った。
「ごめんなさい。母校で音楽の講師をやらないかとの話があり、あなたへのレッスンがもうできない」
なんてことだ…。目の前が真っ暗になった。小宇宙がブラックホールに吸い込まれてしまった。
「でも、安心して。次の先生はもう決めているから。ヨーロッパ留学から帰ったばかりの優秀なピアニストだから」と。
その後は覚えていない。それほどショックだった。

女神は去って行ってしまった。いや、かぐや姫だったのだろうか。
でも、気を取り直して、ヨーロッパ帰りのピアニストに会う日を待ちわびた。

ついに、その日が来た。
ヨーロッパはみどり先生とは正反対だった。名前はおろか姓も顔さえ覚えていない。
お嬢様とはほど遠いケバケバしい場末のスナックのホステスみたいだったことだけは確かだ。
おばちゃんが紅茶を出してくれると、ヨーロッパから買ってきたという小さな缶を取り出し、中から小さな錠剤みたいなものを2粒取り出して紅茶にポチャンと入れた。
「砂糖で太るといけないの」
「それ、なんですか、チクロですか。」
と聞くと、ヨーロッパは「イヤーね。チクロは有害って知っているでしょ。サッカリンよ」と、その名のごとく砂糖の何百倍もの甘ったるい声で言った。
その声は、サルトルが言う、トネリコの根がまとわりつくように、私の心にべっとりとこびりつき、心を逆立てた。

ええい、やめてしまおうかとも思ったが、せっかく紹介してくれたみどり先生に申し訳ない。
それ以上にひょっとしたらこのヨーロッパ、すごい先生かもしれないと、湧き出ようとする嫌悪感をゴクンと喉を鳴らして飲み込んだ。

いよいよ、レッスンが始まった。
みどり先生からもらった『ミクロコスモス』を取り出し、アップライトピアノの蓋の楽譜立に開くといきなり言った。
「ふん、こんな簡単なもの。あなた今まで何やってきたの」とのたまった。
な、なんだ。私とみどり先生の充実した日々をすべて否定したヨーロッパは、持ってきたソナチネアルバムのモーツァルトのハ長調ソナタのところをひろげた。
「さあ、弾いてみて。あなたがどのくらいの程度がみてあげるから」
わたしが引っ掛かりながら弾き始めると「もういいわ。わかった。こんなのも弾けないのねぇ~」と冷たい声で言った。
「じゃあ、先生、見本を聞かせてください」と言うと、
「いいわよ」とピアノに向った。
素晴らしい演奏だった。と言いたいが正反対だった。
本当にヨーロッパ帰りか。
みどり女神に鍛えられた私の耳にはそうしか聞こえなかった。
さすがに、留学ピアニストの端くれだろう。言い訳をした。
「今日は調子が悪いわ。いつもならサッカリンは1粒なのに、今日は2粒入れちゃったから」

その頃、ピアノを習う動機のひとつであるベートーベンみたいなソナタを書いてみたいという目標に挑戦していた。
ベートーベンのソナタ第1番ヘ短調をひっくり返したようなものだったが、とりあえず完成した。
鉛筆で五線紙に丁寧に丁寧に音符を書き込んだ。

その記念すべき私のピアノソナタ第1番をピアニストがどのように鳴り響かせるのか。
身近なピアニストはヨーロッパしかいない。
意を決して、ベートーベンに影響されて作曲したと、ヨーロッパに見せた。
じっと見つめ、ヨーロッパは口角の下がった口を開いた。
「楽譜の書き方がなってないわ。こんなんじゃ弾けないわ」
「とにかく、弾いてみてください」
ビアノに向かったヨーロッパの演奏はヨレヨレだった。
途中でやめると、
「こんなもんじゃ、ベートーヴェン様に申し訳ないわ」とヴェの部分は下唇を歯に当てて発音した。
その頃の私はクラシックのピアニストの大半が初見が苦手なことなど知らなかった。
それにしても想像を上回るヘタさだった。

終わるととんでもないことを言い出した。
「ちゃんとした音楽教育がなされてないのが悪いのよ。友達が教えている高校じゃ、ベートーヴェン様のソナタを弾く子がいて、通知表には5をつけたって言ってたわ。あとはダメ。あなたもイチからちゃんと音楽の勉強をしたら」
私は怒りを通り越してあきれ返った。目の前のヨーロッパと友達の顔を想像した。
音楽大学にはお金持ちのお嬢様が通っているけど、みどり先生のような人はまれで、あとは魑魅魍魎の世界だと勝手に解釈した。
後に高校の音楽教師から音楽大学に行かないかと言われた時も、ヨーロッパを思い出して頑なに拒んだほどトラウマになった。もっともお金もなかったが。

「ベートーヴェン様」で私の腹は決まった。
もう、クラシックはやめよう。
レッスン教室のおばちゃんに「勉強に専念したいので、残念ですが辞めます」とウソをついた。
時同じく、Iが聞かせてくれたビル・エヴァンスに心を奪われかけていた私は、一気にジャズ一筋にのめりこんでいった。
みどり先生ごめんなさい。
ビアノソナタ第1番は失くしてしまったが、先生との思い出、「ピアノの一年生」と「ミクロコスモス」は今でも本棚のすみで眠っている。女神との夢をいまだに見続けたいから。

2017年12月16日土曜日

ラヴェルに恋して

高2になってウッド材に覆われたセパレート・ステレオが我が家に鎮座すると、赤いプラスチックの真ん中がパカパカ開くホータブルステレオで聞いていたモンキーズのLPやベンチャーズの4曲入り赤いEPでは、その堂々とした威容に申し訳ない気がした。



そこで、買い求めたのが本物を聞いたアルフレッド・ブレンデル演奏の「ベートーベン3大ソナタ」とヘルムート・ヴァルヒャの「インヴェンションとシンフォニア」の2枚だった。

ヴァルヒャ盤を買い求めたのはなぜだろう。その後、ジャズに凝りだし、3000枚もレコードを買ったが、ほとんどどこで買ったか覚えていた。レコード棚から上に引き出した時の指の感触とジャケットで記憶していたのだ。それなのにこのレコードには全く記憶がない。バッハという名前だけで買ったのだろう。



ワクワクしながら灰色のザラザラした紙に真ん中に白黒のヴァルヒャの横顔のジャケットから慎重に盤を取り出し、ターンテーブルのゴムの上に乗せ、カートリッジを下すと、とてもガッカリした。
ピアノではない。ハプシコードだった。が、その音楽には心惹かれた。

こんな風に弾いてみたい。それどころか、恐れ多くもバッハやベートーベン(当時はこう表記していた。今はベートーヴェン。こちらの方がリッパに感じられるから?)のような曲を書いてみたいとの衝撃にかられたのだ。
知らないことほど怖いことはない。

こんな私でもさすがに独学でその域に達することができるとは思わなかった。そんなことができたのは、赤い塩ビの朝日ソノラマのソノシートで聞いた幻のソ連の天才ピアニスト、リヒテルぐらいだ。それはずーっと後で知ることなのだが。

小学校1年でやめたオルガン教室以来、オルガンはおろかピアノも習ったことはない。
幸いなことに、我が家のステレオが右の音しか鳴らないと気づかせてくれたIがピアノを習いはじめたが、すぐにギターをやりたいのでやめたばかりだという。
おおー、渡りに船。
一緒に連れて行ってくれと頼んだが、やめたから行きたくないという。
近くだったので場所を教えてもらい、一人で尋ねた。個人の家だった。
おばちゃんが出てきて、誰、どうしたの。と聞かれ、事情を話し、ピアノを習いたいのですが、というと、今日は先生は来ていないので後から連絡してくれるとのことだった。
しばらくしてこの日だったらいいよと電話があった。

その日が来た。アップライトピアノのある居間に通された。
そこには、清楚で上品、しかも美人の先生がいた。思春期まっさかりの少年が憧れる典型的なパターン。ドキドキした。
先生は私に名刺をくれた。うまれて初めて名刺というものをもらった。更に動悸は増した。
「河方みどり」と印刷されていた。
独学でやってきたが、いずれはベートーベンを弾きたいというと、みどり先生は、「弾いて聞かせて」といった。ピアノには簡単な楽譜が置いてあった。
Nとの対決を大勝利で飾って以来、歌のテストがある時以外は、通知表で10段階評価の10だった私は、自信をもって鍵盤にむかった。
「なんだ、こんなもの。よし、どうだ」と弾き終えると、先生はニコっと笑って、さわやかな声で言った。
「あなたの演奏は自分に酔いしれているだけよ」
な、なんという残酷な言葉。
大阪万博で来日して以来、空前のブームとなったカラヤン。同級生もクラシックの演奏家など知らないから、カラヤンと呼ばれていた私がだ。しかも、こんな幼稚な曲に。
こんなこといわれたのは初めてだ。
容姿に惑わされてはいけない。顔は女神だが、心は悪魔かもしれない。
思春期の憧れなど吹っ飛び、ムッと来て「どこがですか」と聞き返した。
みどり先生は、その楽譜を指さしながら言った。
「なぜ、ここにスラーが書いてあるかわかる?」
簡単ではないか。バカにしているのか。
「なめらかに弾けということでしょう」
なにも応えず、「じゃあ、次のスラーは?」
なにを言っているのかわからない。
さらに、「複数のスラーのかかった音節の上にさらにスラーがかかっているのは、どうしてなのかわかる」
ますます、言っていることがわからない。

困惑して何も答えられなくなった私に、先生は丁寧に説明してくれた。
動機(モチーフ)の組み合わせや発展で構成されている音楽にはフレージングというものがあり、たんにスラーやスタッカートがついているのではない。
作曲家がなぜそれらの記号をつけているのか。それらを読み取ることによって人に聞かせることができる音楽になる。といって、実際に解説しながら演奏してくれた。
簡単なつまらない曲が、名曲に聞こえた。まったく違ったものだった。
音楽ってこんなに奥深いものだったのか。
こんな曲でさえ、いろいろと解釈があるのに、もっと複雑なベートーベンなんて何十年もかかってしまうのではないか。
衝撃でおとなしくなった私に、みどり先生は「大丈夫。これからいっしょにやっていきましょう」とさらに透明感のある笑顔でいってくれた。

その一言で、絶望の底から少し上を見上げることができた私は、何か弾いてもらえませんかとお願いした。
目の前でクラシックの曲を聴く機会は、同級生の女の子が弾く、「エリーゼのために」とか「乙女の祈り」しかなかった。

ちょうど、練習している曲があるの。ラヴェルのソナチネ。と先生はピアノに向かった。
ソナチネ? クレメンティ? ソナタより格下の曲? と、一瞬思ったが、鳴り始めた音の流れは疾走するような曲想のものだった。



ピアノの鍵盤の上から下まで使った、流れるようなメロディー。聞いたこともない音の使い方。さらに一つ一つの音が細かく刻まれ揺らいでいる。
目の前で体をくねらせて(その時はそう見えた)、少しうつむき加減になった瞬間、先生の左手の指は鍵盤の一番左の音、つまり、最低音のラを力強く鳴らしたのだ。ボンと響いた直後、スウッと宙を舞い、すばやく体の前にもっていく。未だにその光景と音は脳裏に焼き付いている。
外は大雨で、日が落ちて暗かった中での出来事だと印象に残っているが、曲のイメージがそう感じさせていたのかもしれない。



初めての経験。ナタリー・ドロンの「個人教授」をはるかに凌駕するものだった。
最初に目に入ったみどり先生は淡い気持ちを起こさせる人だったが、そんなものはもうぶっ飛んでしまった。
本物の女神だった。この先生なら間違いない。どんなきついことを言われてもついていこうと心をきめた。
師匠に恋心を抱いてはいけない。その抑圧された心は、このラヴェルの曲に転化され、一瞬で昇華された。
ラヴェルに恋してしまった。もちろん彼の作った曲だけど。

家路につく私は思わず口ずさんでいた。
それは今聞いたラヴェルのソナチネではなく、森昌子の「せんせい」だった。
♪あーわい初恋消えた日は、あーめがしとしと降っていた~
あっ、大雨の記憶はこれだったのか。



2017年12月13日水曜日

「ヘイ・ジュード」VS「レット・イット・ビー」

中3になり、「別れのサンバ」は、胸中にわずかに残っていた燻ぶった炭の燃えかすのような音楽心に火をつけはしたが、燃え上がるまでには至らなかった。
低音部が半音ずつ下がっていく魅惑的な辺見マリの「経験」とか、ビリーバンバンの「白いブランコ」などにコードをつけていくのが楽しみで、演奏というより、理論を追求している音楽学者みたいだった。



ある日の放課後。音楽室のピアノで探求を続けていると、たくさんの男女の取り巻きに囲まれてNがやってきた。ギターのNとは違う。転校してきたばかりの医者の息子のNだ。ピアノを弾くという噂だ。兄もピアノをやり、ショパンがアイドルだと聞いた。私はショパンなど聞いたことがなかった。

Nは、私の姿を見ると言った。「どけ!ヘタクソ!」
取り巻きの視線も冷たいものだった。普段はいい友達なのに。
その思い空気に弾き飛ばされたかのように椅子から立ち上がった。
「お前なんかがピアノは弾くな」というやいなや、サッと座り、当時はやっていたビートルズの曲を弾き始めた。
「ヘイ・ジュード」だった。
確かにカッコイイ。弾く格好も顔も、何枚も上手だった。
取り巻きたちは一緒に「ヘイ・ジュード」の歌詞を口ずさんだ。
それもショックだった。英語で歌っている!
盛り上がり、曲が終わると、Nは止めをさした。
耳慣れたイントロ。
「このテープは自動的に消滅する」のセリフで中学生の心をわしづかみにした「スパイ大作戦のテーマ」だった。
私は完全に打ちのめされ、その場から立ち去るしかなかった。



普通なら、家に帰って落ち込み、ピアノから目をそらし、鍵盤に触れる気さえできなかったかもしれない。
しかし、私にはあのコードの法則を見つけた時の喜びがしっかりと全身に刻み込まれていた。
よし、やるぞ。
あいつが「ヘイ・ジュード」なら、「レット・イット・ビー」で投げ飛ばしてやる。「ジュード」は柔道と思っていた。



ビートルズの曲で持っていた唯一のEP。
レコードが白くなるまで聞いた。
左手が親指、小指とオクターブで動くイントロ。
最初はなかなかできなかったが、譜面に書き取り、練習した。
習ったわけではないから、たくさんあった方がいいと思い、五線紙の上に歌詞と勘違いするほどコードもつけた。
時に挫けそうになり、諦めかけもしたが、「どけ!ヘタクソ!」を思い返し、臥薪嘗胆。
何日も何週間も練習した。
捲土重来してやると、ピアノに向かう姿は鬼気迫るものだった。かもしれない。


音楽室のピアノはNのものだった。
そこからは「スパイ大作戦」が聞こえていた。
私は、腹を決めて佐々木小次郎に向かう、宮本武蔵みたいに勝負に出た。
「どけ」と叫ぶと、Nの手が止まった。
「何しに来た。ヘタクソ。やれるものなら弾いてみろ」と小次郎はニヒルな笑いを浮かべた。
私はひるまなかった。堅忍不抜。ここまで耐えて、日々精進を重ねてきたのだから。
左手の親指でドを鳴らし、次に小指で1オクターブ下のドを力強く抑えた。
もう、ポール・マッカートニーが乗り移ったように、夢中で弾きまくった。
いや、レコード以上に和音がついている編曲版だ。
当時の自分の持てる力を出し切った。
Nは震えていた。ヘタクソが蘇ったフェニックスのように見えたのだろうか。
うなだれて教室の外に出ようとしていく後ろ姿に、「お前なんか、ピアノは弾くな」と言ってやった。
「あゝ忠臣蔵」で仇討ちをはたした大石内蔵助役の山村聡の気分だった。

後から聞いたが、Nの弾ける曲は「ヘイ・ジュード」と「スパイ大作戦のテーマ」の2曲だけ。
なんとかの一つ覚えで、そればかり繰り返す。
取り巻きもすぐに飽きて、あっというまに相手しなくなり、いつも音楽室で一人で弾いていたそうだ。
家ではバリバリのショパンを弾く兄がいたから。
なんだか、可哀そうなことをした。

今では、ハートに火をつけて、小さな火種から燃やし続けられるものにしてくれたNに感謝している。
ごめんネ。でも、おたがい様。

2017年12月10日日曜日

「別れのサンバ」でユリーカ

中2の時、長い沈黙から再び音楽への情熱が目覚めた。今まで途切れていない。

同じクラスのNの部屋に遊びに行くと、ドラムをしている兄貴とバンドを組んでいる。といって、エレキギターで曲を弾き始めた。
テケテケテケテケ~~のイントロで有名なベンチャーズの「パイプライン」。実にかっこよかった。



小学校4年で初めてベンチャーズを聞いて以来、エレキといえばベンチャーズだった。ビートルズは話題になっていたが、聞いたことはなかった。いや、聞こうともしなかった。あのヘンテコリンなヘアースタイルが当時の小学生にはうけなかった。
中3の時「レット・イット・ビー」のEPを何十回も聞くまでは、ビートルズは食わず嫌いだった。

軽くギターのネックを握って、フレットを滑らすNに、こいつは天才だ。と畏敬の念で仰ぎ見た。

その頃、長谷川きよしが「別れのサンバ」でデビューした。盲目のサングラスの歌手が巧みな指の動きでフラメンコ調の伴奏を奏で、「さびしさを あーあー」と「さびしかったのーね」の部分が終わると、爪でボディーをかっこよく叩く。これが流行った。



ベンチャーズはとても弾けそうになかった。別れのサンバはもっと難しそうだったが、ギターを持って爪でボディーを打ち鳴らしたい。
と母にねだったが、入学祝のラジカセがここで大きな障害として立ちはだかった。「あんな高いもの買ってあげたのだから、ギターもなんてとんでもない」と一瞬にして交渉は決裂というか玉砕した。

どうしてもあの「別れのサンバ」を弾いてみたい。と諦められなかった私の目に、居間にあるカワイのアップライトピアノが飛び込んできた。
ピアノを習う妹のために母が会社の寮母として苦労して買い求めたものだ。私より耳のよかった妹はもうそのころにはほとんど鍵盤に触ることもなかった。
花瓶が載った物置と化したピアノの蓋をそっとあけ、「別れのサンバ」のメロディーを一音一音思い出しながら弾いてみた。やっぱり、カッコイイ。
でも、何かものたりない。伴奏、ピアノで言えば左手がわからないのだ。

幸いに音符は読めたので楽器店に行くと、あった。ブルーの表紙のど真ん中に長谷川きよしの写真が大きく印刷されている「別れのサンバ」。ペラペラだった。
ピース譜なんて知らなかった。それしかなかったので中を見てみると、メロディー譜の下にあるはずの左手の低音部分には五線譜より一本多い6本線に、オタマジャクシの玉の代わりに数字が書いてあった。
なんだこれは。初めて見る。(ギターのタブ譜だった)
おまけにメロディー譜の上にはアルファベットの謎の記号。コードの存在なんて全く知らなかった。

どうしようかと迷ったが、「別れのサンバ」の官能的な魅力に私は負けた。
この謎の楽譜を買い求めた。

その日からピアノに向かい、険難の峰に登るがごとく、この楽譜への挑戦が開始された。
カポは3フレットにと書かれ、最初にAmとある。
楽譜はイ短調。テレビから録音したテープはハ短調だった。楽譜と調が違う。
ショックの上にナゾの記号の羅列。
テープの長谷川きよしは、ギターのみの伴奏、しかも巧みなスリーフィンガー奏法だったから、一層困難さが増した。
学校から帰って、テープを聞き、楽譜を凝視しピアノにむかい続けた。来る日も来る日も。

ついにその謎が一瞬にして氷解する時が、突然やってきた。人間、何事にも立ち向かっていけばいつかは報われる。プロジェクトXのように。

ある授業中のことだった。先生の話など耳にはいらず、Am B7 E7 Am Ammaj7 Am7から始まる「別れのサンバ」の楽譜に書かれたすべてのアルファベット記号、それらをABC順に並べ替えたり、mとmaj7、sus4 と大文字のアルファベット以外を真っ黒になるほどびっしりと書きこんだノートを見つめていたら、決まった法則があることに気づいたのだった。
あっ、Aがラの音、Bがシ、Cはド。mは短調、7は7度の意味であることを。

打ち震える感動が抑えきれなくなって、おもわず立ち上がった私は、「わかった!」と静かな教室に響き渡るような声で叫んだ。
クラスのみんなはビックリしたが、先生は冷静な声でいった。「では、この答えは」
当然だが、答えられなかった。
「ユリーカ(Eureka)!」と叫んだアルキメデスも同じ感動を味わったに違いない。



今みたいにピアノ用のコードブックがあれば苦労しなかっただろうが、おかげでその時から、メロディー譜さえあればコードづけし、歌謡曲でも何でも弾けるようになった。
しかし、これがまた私の人生を狂わせていくはじまりともなったのだ。続く~ぅ。